1.ギブオン人の策略とイスラエルの罪
・エリコとアイが攻略されたことはカナン全部族に衝撃を与えた。彼らは集結して、ヨシュアの率いるイスラエル軍と一致して戦おうとした。
-ヨシュア記9:1-2「ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノン山のふもとに至る大海の沿岸地方に住むヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちは皆、このことを伝え聞くと、集結してヨシュアの率いるイスラエルと一致して戦おうとした」。
・これまでは個々の都市との戦いだった。これからはカナン連合軍との戦いになる。約束の地の征服が為るかどうかの正念場を迎える。それは主の預言が成就するかどうかの真偽が問われる戦いになる。
−申命記11:22-25「主はあなたたちの前からこれらの国々をすべて追い払われ、あなたたちは自分よりも大きく強い国々を追い払うことができる。あなたたちが足の裏で踏み込む所は、すべて、あなたたちのものとなり、荒れ野からレバノン山まで、ユーフラテス川から西の海まであなたたちの領地となる。あなたたちに立ち向かいうる者は一人もいない。あなたたちが言われたように足を踏み入れる土地の至るところに、あなたたちの神、主は、あなたたちに対する脅威とおののきを起こされる」。
・預言通りのことが起きた。有力部族のギブオン人が絶滅を怖れて、イスラエルに和を講じてきた。そのやり方はイスラエルをだまして講和を結ぼうというものだった。
−ヨシュア記9:3-6「ギブオンの住民は、ヨシュアがエリコとアイに対してしたことを聞き、賢く立ちまわった・・・彼らはギルガルの陣営に来てヨシュアとイスラエル人に『私たちは遠い国から参りました。どうか今、私たちと協定を結んでください』と言った」。
・彼らは遠い国から来たと偽ってイスラエルと講和を結ぶ。イスラエルは相手のパンを食べた。それは和解と平和のしるしである。その時、イスラエルは主の指示を仰ごうとしなかった。
−ヨシュア記9:14-15「男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めなかった。ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保障する協定を結び、共同体の指導者たちもその誓いに加わった」。
・やがて彼らが敵であるヒビ人であることがわかった。共同体全体は主の指示を仰がずに敵と講和を結んだ指導者たちを批判したが、指導者たちは一度立てた誓いを破ることはしないとして、彼らを滅ぼさず奴隷とした。
−ヨシュア記9:18-20「イスラエルの人々は、共同体の指導者たちがイスラエルの神、主にかけて誓いを立てていたので、彼らを攻撃はしなかったが、共同体全体は指導者たちに不平を鳴らした。指導者たちは共同体全体に言った『我々はイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。今、彼らに手をつけることはできない。我々のなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。彼らに誓った誓いの故に、御怒りが我々に下ることはないだろう』」。
2.人の策略さえも善用される主
・ギブオンの住民たちは、絶滅から逃れるために偽計を用いて、イスラエルと講和を結んだ。ヨシュアはこの事を主の御旨として受け入れ、彼らを殺さなかった。イスラエルは先住民族を全て聖絶したのではない。降伏するものは奴隷として生存させた。
−申命記20:10-13「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。」
・ギブオン人の降伏で、ヨシュアは四つの有力都市を無血で手に入れ、カナン連合軍の重要な一部を叩き潰した。ギブオン人の策略もまた神の業の中に組み入れられ、それがやがて来るカナン人との戦闘勝利の要因となって行く。
−ヨシュア記10:1-2「エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを占領し、滅ぼし尽くし、アイの町とその王をも、先のエリコとその王と同じように取り扱ったことを聞き、またギブオンの住民がイスラエルと和を結び、彼らのうちに住むことを許されたと聞くと、非常に恐れた。ギブオンはアイよりも大きく、王をいただく都市ほどの大きな町であり、その上、そこの男たちは皆、勇士だったからである。」
・イスラエルは、民族として特別な召命を受け、神を礼拝し、神と契約し、その約束を待望した。そのイスラエルに、異邦の民々は二重の圧迫を加える。一つは国の威信や領土の獲得のための争いであり、イスラエルの民は、エジプトでは隷属生活を体験し、ついでカナン人・ミデヤン人・ペリシテ人などとヤーウェの戦いを遂行する。また異邦人はイスラエルに偶像礼拝持ち込み、士師時代にはイスラエルはカナンの偶像崇拝に陥ってしまう。このような事情の中で、申命記の厳格な異邦人排除規定が定められている。
-申命記7:1-5「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を・・・必ず滅ぼし尽くさねばならない・・・彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされる・・・あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。」
・しかし、ヤーウェは同時に全世界の神であり、イスラエル人をエジプトから連れ出したように、ペリシテ人をカフトルから、アラム人をキルから引き出した。これらの旧約の記事は、ヤーウェはイスラエルだけのものという宗教的な民族主義を排除する。異邦人の中に神に対して正しい礼拝をささげる者(メルキゼデク・エトロ・ナアマン等)もいたし、イエスの先祖のタマル・ラハブ・ルツなどのように、契約の民に加えられた者もある。ギブオン人(ヨシュ9:19-27)や割礼を受けた土着の異国人もイスラエルに合体している。このことは、神の民がいつかすべての民族を包含する普遍的なものとなることをはるかに告知する。
3.旧約聖書・聖絶の記述に関する史学的評価(wikipediaから)
・岩波委員会訳の旧約聖書補注によれば、古代の戦闘は全てその民族の守護神の闘いでもあったため、闘いに敗れた民族とその所有物はその所有関係が切断され「神無きもの」となって穢れた存在となる。いわゆる聖戦の法である聖絶は、それを勝利をもたらした自国の守護神に儀礼的に捧げ尽くすことで「神無きもの」が購われ、新たな所有に移すために行なわれる宗教儀礼で、必ずしも敵対異民族を物理的に絶滅させたわけではない、という見解がなされている。
・この聖絶という慣習はイスラエルのみならずモアブやアッシリアのような近隣諸国にも古来から共通して見られた宗教儀礼で、それは敗北した敵を単に虐殺することだけでなく、聖なる闘いに関する宗教的規定のひとつであった。そのため実際にこの規定が適用されたことは現実問題としてかなり稀なことであった。というのも、敵対する異民族を聖絶の捧げ物とした場合でも、相手を滅ぼしてもイスラエルの民には物質的には何の利益にもならないため、当然ながら違反者が続出した。また、一民族を全て根絶やしにすることは現実問題としても無理であった。「このように聖絶が不徹底であったため、バアル信仰がイスラエルの中に蔓延り、神の怒りを招いた結果、自分たちは異民族に支配されなければならなかったのだ」という反省及び歴史解釈がイスラエルの中に起こり、バビロン捕囚以後にそのような観点の下に聖書が編纂されたものと考えられている。
・従って、現在の歴史学では、聖書に書かれた虐殺の記述は歴史を正しく伝えたものではなく、後代のバビロン捕囚前後の時代にイスラエル中心主義の影響で書かれたものとされる。事実イエスの家系にもモアブ人女性ルツが登場することからも分かる通り、実際の歴史ではユダヤ人はアマレク人、カナン人、ミデヤン人、ペリシテ人、モアブ人、アモン人、エドム人などの近隣諸民族と共存・通婚しており、ユダヤ人の勢力がカナン・シリアで支配的なものとなってイスラエル王国・ユダ王国が建国された際も上記のようなユダヤ人以外の諸民族の共存は許されていた。これらの諸民族はイスラエル王国・ユダ王国の統治の間に徐々にユダヤ人と混血し、吸収されていったものと思われる。