1.しるしとしての奇跡の始まり
・モーセはエジプト王に会い、イスラエル人をエジプトから去らせよと求めるが、エジプト王は拒否した(5:1-2)。エジプト王にとってイスラエル人は建設工事を担い、田畑を耕す重要な労働資源、財産だった。その財産を名前も聞いたことのない神のために放棄するわけがない。エジプトに派遣されたモーセは、ファラオに要求を拒否され、民の信頼も失い、神に苦情を申し立て、神は約束を繰り返された。
-出エジプト記6:1「今や、あなたは、私がファラオにすることを見るであろう。私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる」。
・モーセのエジプト王との最初の交渉は失敗した。主(ヤハウェ)はエジプトに対して、数々のしるし(奇跡)を通して、民を解放することを決意される。
-出エジプト記7:3-4「私はファラオの心をかたくなにするので、私がエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。私はエジプトに手を下し、大いなる審判によって、私の部隊、私の民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。」
・人々は神の言葉に従う自由も、拒絶する自由も与えられている。民が従わない時、そこには破滅がある。しかし神は破滅を通しても人々を救おうとされる。だから、「たとえ聞かなくとも語り続けよ」と命じられる。語り続けることによって、彼らは誰が主であるかを知るようになる。
-出エジプト記7:5「私がエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出す時、エジプト人は私が主であることを知るようになる。」
・こうしてモーセとファラオの戦いが始められた。それは誰がエジプトを支配しているのか、エジプト王なのか、主なる神なのかの戦いでもあった。「私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる」ためには長い時間と多くの出来事が必要だった。「主の強い手が働く」、神がモーセとアロンを通してエジプトに数々の災いを下されたことが、出エジプト記7-11章にかけて語られている。
-詩編105:26-36「主は僕モーセを遣わし、アロンを選んで遣わされた。彼らは人々に御言葉としるしを伝え、ハムの地で奇跡を行い、御言葉に逆らわなかった。主は闇を送って、地を暗くされた。主が川の水を血に変えられたので、魚は死んだ。その地には蛙が群がり、王宮の奥に及んだ。主が命じられると、あぶが発生し、ぶよが国中に満ちた。主は雨に代えて雹を降らせ、燃える火を彼らの国に下された。主はぶどうといちじくを打ち、国中の木を折られた。主が命じられると、いなごが発生し、数えきれないいなごがはい回り、 国中の草を食い尽くし、大地の実りを食い尽くした。主はこの国の初子をすべて撃ち、彼らの力の最初の実りをことごとく撃たれた。」
2.しるしを示される神
・神がエジプト人を屈服させるために取られたのは、しるしを通して神の力を見せる方法であった。最初に杖が蛇に変えられた。しかし、エジプトの魔術師も同じことを行ったので、エジプト王は信じなかった。
―出エジプト記7:10-13「モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられた通りに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。」
・二つ目のしるしはナイルの水を血に変えることであった。しかし、エジプト王は動かされなかった。
―出エジプト記7:20-22「モーセとアロンは、主の命じられた通りにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。」
・三つ目のしるしは蛙の災いだった。エジプトの魔術師も同じことを行えたが、王の心はゆらいだ。彼らは災いを増やすことは出来ても、取り除くことは出来なかったからである。
―出エジプト記8:2-4「アロンがエジプトの水の上に手を差し伸べると、蛙が這い上がってきてエジプトの国を覆った。ところが、魔術師も秘術を用いて同じことをし、蛙をエジプトの国に這い上がらせた。ファラオはモーセとアロンを呼んで、『主に祈願して、蛙が私と私の民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう』と言う。」
3.奇跡の意味
・最初になされた奇跡はナイル川の水を血に変えることで、これによって、すべての魚は死に、水は飲めなくなった。ナイル川は6月から7月にかけて水量が増して氾濫し、水の色が変わり、8月には赤みを帯び、夕日に反射すると血の色になると言われている。上流から流れてきた泥土が赤ナイルと呼ばれるほど川の色を変え、時には魚類の死を来たらせる。この災いはいくら深刻でも自然現象が強められたものであるから、偶然の出来事であると無視できた。
・次の災いは蛙の大量出現だった。ナイル川の大氾濫が全土に蛙の卵を運び、9月頃に蛙が異常繁殖したのであろう。しかし、ファラオは出来事の意味を理解せず、イスラエルを解放しようとはしなかったため、今度はぶよが地に満ちた。蛙の大量の死体が腐敗し、異常なぶよの発生を見たのであろう。エジプトの魔術師たちこれが神の業であることを認めるが、ファラオの心は変わらず、今度はあぶの害が及ぶ。この害はエジプト全土に及んだが、ファラオはまだ神の業を認めようとしない。ここに来ると、争いはモーセとファラオではなく、神とファラオの争いであることが明らかにされる。誰がこの地を支配しているのか、王なのか、神なのか、王は自分が神の支配下にあることを認めるのかどうか、の争いだ。
・数々のしるしにもかかわらず、ファラオは悔い改めず、第五の災いとして家畜の疫病が与えられる。ぶよやアブの大量発生が疫病をもたらしたのであろうか。6番目の災いは腫れ物の災いだった。ナイル川の水が減ってくると衛生状態が悪化し、皮膚病が起こりやすい。次に神は全地の家畜を雹で撃たれた。1月の雨季に雨ではなく雹が降った、異常気象だ。第8のしるしとして、いなごの災いが下されるす。いなごが大量発生すると地面が暗くなるほどになり、地上の植物は全て食いつくされる。家臣たちは民を去らせることを進言し、ファラオも譲歩するが、「男だけ行けば良い」という制限をつける。9番目に与えられた災いは闇の災いだった。東風がいなごを来たらせ、西風がいなごを吹き払った。しかし砂漠から吹く西風は砂嵐をもたらし、3日の間、漆黒の闇がエジプトを覆った。ファラオは譲歩するが、今回も「家畜は残して行け」との制限つきであり、モーセはこれを拒否し、いよいよは最後の災い、過越を迎える。
・これまでの繰り返し起こった災いを見た時、いずれの災いもエジプトの気候風土に関連したものであることがわかる。神は自然を通じてその御業を行われ、エジプト人はそれらを自然現象に過ぎないとして神の存在を否定し、イスラエル人はそこに自然現象を超えた神の御業を認めていき、それが出エジプト記7章から11章までの記述に現されている。
・出エジプトの出来事は、私たちが今回の東北大震災をどのように受け止めるのかということとも関連してくる。東北大震災は地球を覆うプレートの変動によって生じた海溝型地震であり、それはおおよそ100年周期で発生する自然現象だ。しかしその自然現象によって多くの方が亡くなられた、その時この自然現象は別の意味を持ってくる。
-中野毅「近代化・世俗化・宗教」から「多くの国民は、3.11に東日本をおそった大震災や福島原発事故を、『神の怒り』や『天罰』などとは考えていない。われわれは巨大地震発生の自然的メカニズムを知っており、原爆のみならず原発の有効性とともに、制御不能なほどの危険性も知った・・・そして、それらが招く災害や被害への対策・対処も、経験科学的な知識と技術によってのみ可能であり、祈りや呪術では解決できないことを知っている。それにもかかわらず、『大災害の中で、私は生き残って、あの方は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのか』という実存的な問いに応えるものをこの社会は持っていない」(創価大学社会学報、2012.3)。
・大震災の結果発生した福島原発事故が問いかけるのは、「人間は本当に原子力や核廃棄物を管理できるのか」という問題でもあった。津波等により、核燃料の冷却ができない状態になり、核燃料がメルトダウンし、周囲に放射性物質を拡散させた。また使用済み核燃料(核廃棄物)は完全に無害化することはできず、最終処分の方法が見出せないことも明らかになった。福島原発事故を通して、ドイツやスイスでは今後は原子力発電所を新しく造らず、既存発電所も耐用年数が来れば廃棄すると発表したが、日本では原子力発電所再稼働の方向で進んでいる。原発依存を廃止し、自然エネルギー開発に注力するのかしないのか、出来事に自然現象を超えた「意味」を認めた時、物事は新しい展開を見せる。