江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年6月16日祈祷会(創世記45章、神の摂理)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.兄弟の和解

・ヨセフは杯を盗んだベニヤミンだけを残して、残りは故郷に帰ってもよいと兄弟たちに告げる。それに対して兄弟のユダは、弟を残して帰れば父ヤコブは悲しみのあまり死ぬ、それは出来ないと抗弁する。かつてユダはヨセフが父の寵愛を受けることを妬んで、「ヨセフを奴隷に売ろう」と提案している。その彼が今はベニヤミンのため、自分を奴隷にしてくれと語る。ヨセフはユダの言葉を聞いて自分の身を明かす。
―創世記45:1-3「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。『私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。』兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。」
・ヨセフは兄弟を責めない。神の導きで、エジプトで兄弟たちと再会することが出来たと信じる故である。
―創世記45:4-5「ヨセフは兄弟たちに言った。『どうか、もっと近寄ってください。』兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。『私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。』」
・「あなた方が私を売った」行為が、「神が遣わされた」行為に昇華されている。和解による赦しが宣言されている。人間の罪の現実を超えて働く神の力をヨセフも兄弟も感じている。
―創世記45:7-8「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が私をファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。』」
・ヨセフは父ヤコブにエジプトに来て、一緒に住むように勧める。
―創世記45:9-11「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、私を全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、私のところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、私の近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、私がお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』」
・こうしてイスラエル一族はカナンを離れ、エジプトの国に住むようになり、その地で部族から民族へと育てられる。
―詩篇105:23-24「イスラエルはエジプトに下り、ヤコブはハムの地に宿った。主は御自分の民を大いに増やし、敵よりも強くされた。」

2.神の導かれる歴史(神の摂理)

・ヤコブ一族がエジプトに来たのは、紀元前17世紀のヒクソス(ギリシャ語=異国の地の支配者)王朝の頃と思われる。ヒクソスはイスラエルと同じセム族である。やがてヒクソス王朝は追放され、新王国の時代(紀元前13世紀)に、イスラエルは迫害されて奴隷となり、そのため出エジプトがなされたと考えられている。エジプトにわたったイスラエル族は70人だったが、400年の間に一つの国民と育てられていった。
―創世記46:27「エジプトで生まれたヨセフの息子は二人である。従って、エジプトへ行ったヤコブの家族は総数七十名であった。」
―出エジプト記12:37「12:37 イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。」
・ヤコブが天寿を全うして死んだ後、兄弟たちは再びヨセフを恐れる。その兄弟たちにヨセフは神の摂理を再確認する。神は「悪を善に帰る力をお持ちだ」というのが、聖書の信仰である。
−創世記50:19-21「ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。この私が、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。』ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた」。
・この摂理の信仰をパウロも語る。
−ローマ8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」。
・神は直接介入されるのではなく、人の行為を通じてその目的を果たされる。奇跡を期待するのではなく、神の御心が私たちを通して成るという信仰こそ、私たちの信仰である。
-D.ボンフェッファー・獄中書簡集「神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」
・またヨセフは45章で語っている「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです」。「残りの者」という言葉は大事だ。神はどのような時にも「残りの者」を残され、そこから新しい命が生まれていくとは、旧約新約を貫く信仰だ。
―イザヤ10:20-22「その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びは定められ、正義がみなぎる」。
・教会は意見が対立し、分裂することがある。その時、大勢の人が教会を離れ、少数者が残される。しかしその「残りの者」から新しい教会が再生していく。それは私たちも体験したことだ。
−ローマ9:27-29「イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。『たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。』それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。『万軍の主が私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。』」

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