1.モーセの召命
・出エジプト記3章は、モーセの召命を描いている。モーセはミディアンの地で羊を飼っていたが、ホレブの山で神に出会ったと出エジプト記は記す。
−出エジプト記3:1-3「モーセは、舅でありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、ある時、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。』」
・モーセは元々エジプトに住むヘブル人だった。彼は40歳の時、エジプト人監督がヘブル人を虐待しているのを見て、そのエジプト人を殺し、追われてミディアンの地に逃れた。その地で、祭司レウエルの保護を受け、娘チッポラを与えられ、羊を飼う者となっていた。彼は息子に「ゲルショム」(寄留)との名をつける。決して今の生活に安住しているわけではない。
-出エジプト記2:21-22「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、『私は異国にいる寄留者(ゲール)だ』と言ったからである。」
・それから40年の時が流れ、彼はそれなりに安定した生活の中にある。自分と家族の生活だけを考えればよいからだ。そのモーセに神の召命があった。モーセは燃える柴の間から語りかけられる神の声を聞く。
−出エジプト記3:4-6「主はモーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が『はい』と答えると神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』神は続けて言われた。『私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」
2.苦しむ者の声を聞かれる神
・神がモーセを召したのは、エジプトで苦しむイスラエルを救済するためであった。神は、人間の苦しみを見て、聞いて、知って、行為される。
―3:7-8「主は言われた。『私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
・そしてモーセに、「イスラエルの人々をエジプトの地から連れ出す」ことを命じられる。
−出エジプト記3:9-10「イスラエルの人々の叫び声が、今、私の元に届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
・モーセは神の召命を受けた時、辞退する。「私は何者でしょう」とモーセは言う。モーセはヘブル人として生まれ、エジプト人として育てられ、今はミディアン人として生活している。彼はヘブル人としてのアイデンティティーを持てない。だから言う「何故私が、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのか」。
―出エジプト記3:11「モーセは神に言った。『私は何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』」
・「私は何者でしょう、私は適任ではありません」と抗議するモーセに対し、神は「私が共にいる」と応答された。「私はあなたと共にいる」、これが神の約束であった。
−出エジプト記3:12「神は言われた。『私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」
・彼はエジプトからの逃亡者であり、エジプトに行けば命の危険がある「何の力も無い個人が、強大な軍事力を持つエジプト王と戦うことが出来るはずはない」と考えている。さらに彼は80歳になり、もう若くはない。「何故今の安定した生活を捨てて、危険を冒してエジプトに行く必要があるのか」との気持ちもあったであろう。神はモーセの問いには直接答えられず、「私は必ずあなたと共にいる」と言われる。ヘブル語では“エフィエー=有る”、“イムマーク=共に”、“私は共に有る”。この“イムマーク=共に”に“エル=神”をつけると、“インマヌエル=神共にいます”という言葉になる。
3.神が名を明らかにされる
・「あなたの名前を教えて下さい」と頼むモーセに、神は「有って有るもの」だと応答される。
―出エジプト記3:14-15「神はモーセに、『私は有る。私は有るという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。私は有るという方が私をあなたたちに遣わされたのだと。』神は、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえに私の名、これこそ、世々に私の呼び名。』」
・有って有るもの、「エフィエー・アシュエル・エフィエー」。「エフィエー」=有る(ハーヤー)の1人称単数=私は有る、「アシェル」=関係代名詞=WHO、訳すれば、有って有る者とは「I am who I am」である。神はご自身の名を明らかにされた。それは「私はあなたがたのために神になるであろう」との神の決意を示されたものである。
―出エジプト記3:16-17「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主が私に現れて、こう言われた。私はあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。」
・この後のイスラエルの信仰は、導かれる神の救済の業に対する感謝が中核である。
―申命記26:7-9「私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。」
・この神に押し出されて、モーセはためらいながら、エジプトへの旅を始める。モーセの召命は80歳の時と言われる。実年齢は40−50代であろうが、いずれにせよ、人生の三分の二を終えた時に召命され、ここから、モーセの本当の人生が始まる。私たちも遅かれ早かれ、この召命を体験し、自分のために歩む人生から、他者のために生きる人生に変えられていく。この召命を通して、私たちも新しい人生へと歩みだす。
4. 杖一本を持ってエジプトへ
・モーセは「私があなたと共にいる、その約束のしるしとしてお前に杖を与える」と神は言われた。こうしてモーセは神の杖を与えられる。神の杖とは、神が共にいましたもうという約束のしるしだ。
-出エジプト記4:17「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
・モーセはただ、この神の約束だけを頼りに、苦難と危険の待ち受けるエジプトに向かう。信仰とは、神の約束のみに依り頼んで、全人的に服従することだ。そして、神の約束を信じるとは、神以外のものを放棄することだ。モーセは若くて力がある時は、自分の力に頼って同胞を救済しようとして、エジプト人監督を殺した。しかし、このような力の行使は何の意味も持たない。そのことを学ぶ為にモーセはエジプトを追われ、ミディアンの地で40年間を過ごすように導かれた。そして今、人の力ではなく神の約束にのみ希望をおくことを知らされ、神の召命を受けて、杖一本を持ってエジプトに向かった。
−出エジプト記4:20「モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った」。
・イエスも弟子たちに杖だけを持って宣教に出かけるように求められた。
-マルコ6:7-9「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」
・私たちも「一本の杖のみを持って、人生を生きよ」と言われている。「余分なものは要らない、神が共におられる、その信仰だけを持っていけ」と。しかし、私たちは言う「杖一本では不安です。もっと下さい」。しかし杖一本で十分なことを私たちは体験を通して学んでいく。