江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年7月7日祈祷会(創世記48章、ヨセフの子への祝福)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ヤコブの遺言

・ヤコブは死が近づいたことを知り、ヨセフを呼んで、自分の死後、遺体は約束の地カナンに葬るように命じた。
−創世記47:29-30「イスラエルは死ぬ日が近づいた時、息子ヨセフを呼び寄せて言った。『・・・どうか、私をこのエジプトには葬らないでくれ。私が先祖たちと共に眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。』ヨセフは『必ず、おっしゃる通りにいたします』と答えた」。
・そしてヤコブはヨセフの二人の子マナセとエフライムを養子とし、神から与えられた祝福を分与した。末子ヨセフに長子権(子二人を通して一人で2倍の相続分)が与えられたことを意味する。
―創世記48:3-5「ヤコブはヨセフに言った。『全能の神がカナン地方のルズで私に現れて、私を祝福してくださった時、こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし、あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に、永遠の所有地として与えよう。』今、私がエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子を私の子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、私の子となる。』」
・ヤコブはエジプトにいながら、約束の地に自分の子孫が帰ることを前提にしている。創世記の物語は出エジプトを前提にした「約束」の物語だ。ヨシュア記を書いた記者たちが創世記を書いているのであろう。
—ヨシュア記24:14-15「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます。」

2.ヤコブのヨセフの子に対する祝福の手の交差

・ヤコブはヨセフの子を抱き寄せ、祝福する。
−創世記48:8-12「イスラエルは、ヨセフの息子たちを見ながら、『これは誰か』と尋ねた。ヨセフが父に、『神が、ここで授けてくださった私の息子です』と答えると、父は、『ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう』と言った。イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた。イスラエルはヨセフに言った。『お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。』ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した」。
・その時、ヤコブはヨセフの長男マナセを左の手で、次男エフライムを右の手で祝福する。右手は力の象徴であり、長子への祝福を意味する。ここでも長子権が人間の順序ではなく、神の選びにより付与されている。
―創世記48:13-14「ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。」
・ヨセフは父の目が見えないため、長男と次男を間違えたのだと思い、直そうとするが、ヤコブは訂正を拒んだ。
―創世記48:17-19「ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。『父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。』ところが、父はそれを拒んで言った。『いや、分かっている。私の子よ、私には分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。』」
・その後の歴史において、エフライム族はマナセ族よりも強大な部族になってことがここに反映しているのであろう。約束の地に入る時、「エフライムには幾万の軍勢が、マナセには幾千の軍勢があった」と申命記は伝える。
-申命記33:16‐17「地とそれに満ちるものの賜物、柴の中に住まわれる方の慈しみ。それらすべての恵みがヨセフの頭に、兄弟たちから選ばれた者の頭に臨むように・・・見よ、エフライムの幾万の軍勢を。見よ、マナセの幾千の軍勢を」。
・長子のマナセではなく、エフライムが後継者に選ばれる。ヤコブも兄エソウを差し置いて長子権を得た。人間の秩序ではなく、神の選びが優先することを示している。
―ローマ9:11-16「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、業によらず、召した方によって行われるために『兄は弟に仕えるであろう』と彼女に仰せられた・・・神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセに言われた『私は自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』。故に、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神の憐れみによるのである。」
・しかし、それは一方の選び、一方の切捨てではない。神はヤコブを選ばれたが、エソウをも祝福された。神はエフライムを選ばれたが、マナセをも祝福されている。
―創世記48:19「この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」
・これはエフライムがマナセより神の前に偉くされたわけではなく、役割を果たすためにより大きな賜物をいただいた事に過ぎない。しかし、人間は常に右手の祝福を求め、与えられない場合は力で奪おうとする。
―ヤコブは長子権を得るために父イサクを騙し、兄エソウの憎しみを買い、故郷を追われた(創世記27:41−44)。
―その償いをするために、叔父ラバンの下で20年の忍従の生活を強いられた(創世記32:11‐12)
―そして今はこのために祝福を求めるものとされた(創世記48:15‐16)
・人間に与えられた賜物(能力、タラント)はそれぞれに異なる。それに不平を言うのではなく、与えられた能力、立場に最善を尽くすことが人生の意味であることを創世記48章は伝える。
―マタイ25:14-15「天国は、ある人が旅に出る時その僕どもを呼んで自分の財産を預けるようなものである。それぞれの能力に応じてある者には五タラントある者には二タラントある者には一タラントを与えて、旅に出た。」
・神は何故イスラエルを自分の民とされたのか。それは弱い者を選ぶ事により摂理を明らかにするためであった。
―申命記7:7-8「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。」
・私たちの選びも同じだ。私たちは価なしに、選ばれて神の子とされた。だから私たちの役割は仕えられることではなく仕えることであり、排除することでなく受け入れることなのだ。
―?コリント1:26-27「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるためにこの世の弱い者を選ばれた」。

3.アブラハム、イサク、ヤコブの神

・ヤコブはヨセフへの祝福の中で、自分を導いた方を、「アブラハムの神、イサクの神」と呼ぶ。
−創世記48:15-16「ヨセフを祝福して言った。『私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。私の生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。私をあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、私の名と私の先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」
・300年の後、苦難にあえぐイスラエルの民の声を聞いたのは「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であった。
−出エジプト記2:23-25「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。
・神がモーセに与えた名も「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であった。
−出エジプト記3:16「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主が私に現れて、こう言われた。私はあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た』。
・17世紀に活躍した科学者・哲学者パスカルは、1654年11月23日、31歳の時に決定的な回心をしている。死後発見されたメモには「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者及び科学者の神にあらずして。イエス・キリストの神。永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とある。抽象的な神ではなく、人々に働きかけ、導く、生ける神との出会いを、パスカルは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現した。

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