1.イスラエルに迫る危機
・出エジプト記14章には相矛盾する記述が重複して出てくる。記事が複数の資料によって構築されているからだ。一つがJ資料(ヤハウェ資料)と呼ばれるもので、概ね古代からの伝承に沿った記述をしている。もう一つがP資料(祭司資料)と呼ばれるもので、伝承に神学的な立場から後世の人々が書き込みをしたもので、神の御業を奇跡的に描く傾向がある。例えば14:22「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」は祭司資料で、彼らは信仰的な立場から物事を神秘的に表現する傾向がある。私たちは「神は自然の摂理を無視した奇跡は為されない。それは魔術であって神の御業ではない」と考え、概ね古代からの伝承であるJ資料に基づいて、物語を読んでいく。
・出エジプト記14章では、J資料は5節から始まる。民が逃亡したとの報告を受けて、エジプト王は民を解放したことを後悔し、民の後を追った。
―出エジプト記14:5-7「民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。『ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。』ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。」
・追跡してきたエジプト軍を見た民は恐怖と混乱に襲われ、彼らは神とモーセを呪い始めた。
―出エジプト記14:10-12「イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、モーセに言った。『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましですと言ったではありませんか。』」
・その民に、モーセは「主が共におられるから落ち着け」と諌める。
―出エジプト記14:13「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と永久に彼らを見ることはない。」
・この戦いはイスラエルとエジプトの戦いではない。神とエジプトとの戦いである。何故なら、エジプトは神の主権を侵して、イスラエルを再び奴隷にしようとしているからだ。
―出エジプト記14:14「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
・エジプト軍の急迫を見た民の最初の反応は驚きと恐怖、神とモーセに対する呪いだった。モーセは民に「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と語る。「恐れてはならない」、この言葉こそ、イスラエルが苦難の時に聞き続けた言葉である。イスラエルは「前に海、後ろに敵、内には動揺」が迫り、まさに八方ふさがりである。このような困難は個人にも教会にも起こりうる。その時、私たちは「落ち着いてすべてを主に任せることが出来るか」が問われる。
2.葦の海を渡る
・神は行動を開始された。エジプト軍を押し留めるために、闇が覆い、東風が吹いて海を分けた。
―出エジプト記14:21-22「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」
・しかし、エジプト軍が海の道に入った時、東風は止み、海は逆流し始めた。
―出エジプト記14:23-25「エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た・・・主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。『イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。』」
・やがてエジプト軍の上を水が覆い、彼らは全ておぼれて死んだ。
―出エジプト記14:27-28「モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。」
・ナイル川のデルタ地帯の潮の満ち引きがこのような出来事を可能にしたと思われる。神は人の力、自然の力を用いてその業をなされる。なおこの物語は「紅海の奇跡」とも呼ばれ、アフリカ東岸とアラビア半島を分ける紅海で起きたような印象があるが、これは「葦の海」(ヘブル語ヤム・サーフ)がギリシャ語に訳される時、誤って「紅海」とされたものが通説化したものであり、あくまでも物語の舞台は「葦で覆われた沼地、ナイル川デルタ地帯の湿地」である。またヤハウェ資料は「神が自然現象なる東風を用いて海を分かたれた」ことを記し(14:21b)、他方祭司資料は「モーセが手を挙げることによって海が分かれた」として、より奇跡的な要素を強調している(14:21a、14:26)。映画「十戒」で「海が分かれる」シーンはこの祭司資料を劇場化したものである。
3.出来事の意味を考える
・出エジプト記14章は締めくくる「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」(14:31)。この「葦の海の出来事」はその後も繰り返し、人々に賛美されて来た。その代表が15章のミリアムの賛歌だ。彼女は歌う「主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた」(15:21)。
・聖書古代史を専攻するカトリック司祭・和田幹男氏はこの出来事について次のように述べる「出エジプトの出来事は世界史的には規模の小さい出来事であったが、これを体験したヘブライ人の集団とその子孫にとっては忘れられない大きな出来事であった。人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、全く新しい神認識に至った。出エジプトの救いの体験以前には、ヘブライ人たちは、近隣の諸民族がその神々を考えるのと同じように、守護神とか、豊饒多産をもたらす神とか、神話で語られる神々の一つと見ていた。しかし、ヘブライ人は出エジプトという救いの歴史的な出来事を事実として体験し、自分たちの神は実際の歴史的な出来事に関わってくださるお方だという認識を得るにいたった・・・歴史を導く神というイスラエル独特の神の認識がそれ以来始まったのではなかろうか」。
・和田司祭は続ける「出エジプトは救いの原体験のようなものであったから、その後くりかえし体験される救いも出エジプトをモデルに考えられるようになった・・・こうして、新しい出エジプトということが言われる。キリスト教徒にとって罪の束縛状態から解放され、恩恵の世界に生きる道を開かれたイエスの死と復活こそ新しい出エジプトである」。パウロも同じ事を述べる。
−第一コリント10:1-4「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」。
・ここに出エジプトの解釈が語られている。「雲の下」、出エジプトにおいて「主は先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされ」た。「海を通りぬけ」、葦の海を分けてエジプト軍からイスラエルを救い出して下さった。この出来事によって先祖たちは、「モーセに属するものとなる洗礼を授けられた」。
・パウロの言葉を通して、私たちは「出エジプトの新約的意味」を考える。第一に、あの葦の海の奇跡に勝る大きな救いのみ業が、イエス・キリストによって為されたことだ。神がひとり子イエスを私たちのために死に渡して下さったことによって、私たちはこの世の奴隷状態から解放されて向こう岸に渡る事が可能になった。第二に、私たちが神の大いなる救いのみ業を具体的に体験するために、洗礼が与えられたことだ。私たちはイスラエルの民と同じように、順調な時は意気揚々と、苦しみが襲ってくると人のせいにして泣きわめくような未熟な、自立できない存在だ。そのような私たちに、神は「恐れてはならない。落ち着いて、今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と語りかける。
・人生には繰り返し危機が訪れる。家族の死や自分の病気、事故、受験や就職の失敗、左遷や解雇、事業の不振や破産、夫婦関係や親子関係の破綻等数えきれない程の危機が人生にはある。危機、英語のcrisisという言葉は分かれ目、転換点を指す。これを通過する時は痛みや悲しみを伴い、対応を誤ると死に至る危険すらある。しかしそれを乗り越えると、向こう岸には新しい天地、解放された地がある。危機はまさに「人生の分かれ目」だ。その人生の分かれ目に立たされた時、「恐れてはならない。落ち着いて、今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と語りかけて下さる方を見出すことこそ、救いなのではないだろうか。