1.天地創造の始め
・創世記1章は天地創造の記事であり、その1-2節は創造前の世界がどのようであったかを記している。
−創世記1:1-2「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。
・神が天地を創造される前には、世界は闇の中にあって、混沌としていた(口語訳「地は形なく、むなしく」)。そこに「光あれ」という神の言葉が響くと光が生まれ、混沌(カオス)が秩序あるもの(コスモス)に変わっていったと創世記の著者は語る。
−創世記1:3-5「神は言われた『光あれ』。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」。
・創造の前、「地は形無く、空しかった」。「形無く、空しく」(ヘブル語=トーフー(形なく)・ワ(そして)・ボーフー(空しく))は旧約聖書で3回しか使われない特別な言葉である(創世記1:2,イザヤ34:11,エレミヤ4:23)。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなる。イスラエルはバビロニアによって征服され,首都エルサレムは壊滅し、王族を始めとする主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて行かれた(バビロン捕囚)。この捕囚地での新年祭にバビロニアの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見た。何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか。
・捕囚期の預言者エレミヤは「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」と歌った。この「混沌」が「トーフー・ワ・ボーフー」だ。バビロンの創造神話を克服するものとして、創世記1章の創造物語が書かれている(1:1「水」はテホームであり、バビロン神話では「混沌の海(テホーム)」が創造神により制圧され、その上に大地が据えられて、世界秩序が確立する)。
―エレミヤ4:23-26「私は地を見たが、それは形がなく、また空しかった。天を仰いだが、そこには光がなかった・・・人は一人もおらず、空の鳥はみな飛び去っていた。私は見たが、豊かな地は荒れ地となり、そのすべての町は、主の前に、その激しい怒りの前に、破壊されていた」。
・「自分たちは滅ぼされた、神に捨てられた」、神の怒りにより自分たちの国は滅ぼされ、異国の地に捕囚となっている。絶望の闇がイスラエル民族を覆っていた。しかし、神が「光あれ」といわれると光が生じ、闇が裂かれた。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さる方だとの信仰告白がここにある。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか。私たちを赦して下さるのですか」。そのような祈りが創世記1章の言葉の中に込められている。
2.すべては良かった
・創造の業は続く。二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれる。ここにもバビロン神話の影響があると言われる(バビロン神話では神(マルドーク)が怪物(ティアマット)を殺し、死体を二つに切って、天と地にしたとする)。
−創世記1:6-8「神は言われた『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」。
・三日目には地球が造られ、海と陸が分けられ、生物が生きる環境が整えられていく。そして植物が形成されていく。神が水を一箇所に集められた、水を制して陸地が創造されたとのメソポタミア神話の影響がここにあると言われる。
−創世記1:9-13「神は言われた『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ』。そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ』。そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である」。
・4日目には太陽や月が造られた。エジプトでは太陽は神であり、メソポタミアでは月が神であった。しかし、イスラエルは、「太陽や月は神ではなく、単なる被造物に過ぎない」と宣言する。
−創世記1:14-19「神は言われた『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ』。そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である」。
・5日目には魚と鳥が造られ、そして最後の6日目に動物が創造される。
-創世記1:20-25「神は言われた『生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ』。神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ』。 夕べがあり、朝があった。第五の日である。神は言われた『地はそれぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ』。そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた」。
3.人間の創造
・創世記は1章26節から、人の創造を記す。神が「我ら」と複数形で示されている。「熟慮の複数」と呼ばれる用法だ。また、人は「神の似姿に創造された」と告白され、「創造された(バーラー)」という言葉が3回も用いられている。人こそが神の創造の目的だったと著者は理解している。
−創世記1:26-27「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。
・そして神は人を祝福される。すべての人々は神の祝福の中に生まれてくる。罪を犯したイスラエルもまた神の祝福の中にあり、親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にある。
−創世記1:28「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。
・私たちがどのような状況にあっても、神は私たちの存在を肯定しておられる。創世記はそう述べる。すべての人は存在することにより、肯定されている。男も女も、大人も子供も、健常者も障害者もまた、神の肯定の中にある。創世記は私たちに、例え現在が希望のない闇のように見えても、その闇は神の「光あれ」と言う言葉で分断されるとことを伝える。イスラエルの信仰は、神は人を「良し」として創造され、「生めよ、増えよ」と祝福された事を教える。だから、私たちも希望を持つことが出来る。
−創世記1:29-30「神は言われた『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう』。そのようになった」。
・神は「ご自分の形に」、私たちを創造された。神の形とは人格を持つ存在として人が創造されたことを意味する。神が語りかけられ、それに応えうる存在として、人は造られた。神と私たちの間には、「私とあなた」という人格関係が成立している。古代エジプトにおいては「王が神の似姿」とされ、王の神格化が認められる。しかしここでは、王ではなく、「人が神の似姿」とされる。イスラエル人は捕囚の地で、人間以下の「それ」という奴隷の状態にあった。敗残者として卑しめられ、もののように扱われていた。その中で、神は自分たちを「あなた」と呼んで下さる。そのことの中に、現実の「それ」という関係が、やがて「あなた」という人格関係に変えられる望みを、イスラエルは見たのではないか。
−創世記1:31「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」。
・創造物語の最後は、「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」で終わる。創造の業が神の肯定の中で終えられている。この「良かった」、「良しとされた」という言葉が、創世記1章の中に7回も出てくる。何故、繰り返し「神は良しとされた」という言葉が用いられているのか。それは現在が「良しとは言えない」状況の中で、イスラエル民族が神の「良し」という言葉を求めているからであろう。私たちは良きものとして創造された、罪を犯したために今は「良し」とは言えない。しかし、神はこのような私たちを赦し、再び「良し」という中に戻して下さるという信仰告白がここにある。「地は形なく空しかった」、しかし神はすべてを「良しとして創造された」。そのことの中に捕囚のイスラエルの民は、未来の回復の希望を見出している。