1.死の倫理
・死は万人に等しく臨む。善人も義人も等しく死ぬ。そうであれば、「善であることの意味、義であることの意味は何か」とコヘレトは苦悶する。
−コヘレト9:1「私は心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち、善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない。人間の前にあるすべてのことは何事も同じで、同じ一つのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえを捧げる人にも捧げない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる」。
・「人生が無益なのは、人がどう生きたかに関わらず、死が同じ宿命として臨むことだ」とコヘレトは語る。そうであれば人が努力する意味はどこにあろう、とコヘレトは問いかける。
−コヘレト9:3「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じ一つのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」。
・しかし、多くの死を看取ってきた医師の柏木哲夫氏(前淀川キリスト教病院院長)は違う意見を持つ。彼は「人は生きてきたように死ぬ」と語る。死は生を無益にはしない。
-柏木哲夫氏の言葉「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる。それには何も答えられない。しかし、言えるのは、『人は生きてきたように死ぬ』。多くの人はあきらめの死を死ぬが、死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」(柏木哲夫「死にざまこそ人生」朝日選書)。
・そして信仰者は、キリストの復活を通して、死が終わりでないことを知る。コヘレトはキリストを知らない。だから死はすべての終わりと理解する。
-ヨハネ11:25-26「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。
2.死を前にどう生きるか
・全ての人は死ぬ。その意味では人生は空しい。「しかし今、私は生きている。そのことに意味がある」とコヘレトは語る。獅子は強者の象徴であるが、死ねばハゲタカの餌にしか過ぎない。犬は卑しめられる生き物であるが、生きている犬は死んだ獅子よりましだと語る。
−コヘレト9:4(口語訳)「すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せる獅子にまさるからである」。
・人は死ねば人生をやり直せない。しかし生きているうちには、やり直しは可能である。生きていることの素晴らしさは、常に将来に対して希望が持てることだ。
−コヘレト9:5-6「生きている者は、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何一つ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれ一つにも、もう何の関わりもない」。
・希望こそが生きていく上での喜びだ。その意味で、この希望さえも奪い取ってしまう虚無ほど怖いものはない。神無き世界が如何に恐ろしいか、近藤剛は述べる。
-近藤剛・神の探求から「私たちはどこから来たのか、どこへ行くのか、生きていることに何の意味があるのか、死ねばどうなるのか、かつて、このような人間存在の問いに、神が答えを与えてくれた。しかし、現代人は『神は死んだ』として、神を放逐した。その結果生まれたのは、神の名において守られてきたものが見失われ、価値の根幹が揺るがされた。神の存在に根差した道徳心、倫理観、規範意識は廃れ、人間の自由は恣意と化した。人間から良心が棄て去られたら、そこに出現するのは『人間は人間に対して狼である』という原初状態しかない。ニーチェがわれわれに教えたことは、『人が生まれてきたことに何ら目的はなく、生きていることに何ら意味はなく、私たちの存在には何らの価値も与えられず、私たちの生存には必然性はない』ということだ。これが現実の在り方であるとすれば、私たちは、この事実に耐えることができるだろうか。あるいは、この事実を前にして、健全な生を全うすることができるだろうか」。
3.今、生かされて在ることを楽しめ
・コヘレトは「今、生かされて在ることを楽しめ」と語る。これは刹那的な楽しみではなく、与えられた現在を一生懸命に生きることだ。
−コヘレト9:7-10「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」。
・人は死を知るゆえに現在を大事にすることができる。「あたりまえ」という詩を書いた井村和清氏は1979年癌でこの世を去った。32歳の医師だった。癌が発見されたのが1977年、30歳の時で、転移を防ぐため、右足を切断したが、癌が肺に転移して死去した。この詩は若き医師、井村和清氏が家族へ残した手記の中にあった。死を知るからこそ、生きることの素晴らしさを彼は歌う。
-あたりまえ・井村和清「あたりまえ、こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう。あたりまえであることを。お父さんがいる、お母さんがいる 、手が二本あって、足が二本ある、行きたいところへ自分で歩いていける、手を伸ばせばなんでもとれる、音がきこえて声がでる、こんなしあわせなことがあるのでしょうか 。しかし、だれもそれをよろこばない、あたりまえだ、と笑ってすます。食事がたべられる、夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる、空気を胸いっぱいに吸える、笑える、泣ける、叫ぶこともできる、走りまわれる、みんなあたりまえのこと、こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。そのありがたさを知っているのは、 それを失った人たちだけ、なぜでしょう、あたりまえ」。
・人は自分の人生を支配できない。人生には常に予測できない事が起こる。足の早い者が競争に勝つとは限らず、強い者が常に戦いに勝つわけでもない。
−コヘレト9:11-12「太陽の下、再び私は見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが、人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」。
・3.11で2万人の方が亡くなった。その中には賢人も愚かな人もいたことだろう。信心深い人もそうでない人もいたであろう。人はそれを「偶然」、あるいは「運命」と呼ぶ。私たちはそれを「必然」、あるいは「神の摂理」と呼ぶ。人間には分からないが、そこに意味を見出していく努力は必要だ。
-マタイ10:29「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。
・その神の摂理を見出していく作業が「知恵」だ。その知恵こそ、価値ある事柄だ。
−コヘレト9:17-18(口語訳)「 静かに聞かれる知者の言葉は、愚かな者の中のつかさたる者の叫びにまさる。知恵は戦いの武器にまさる。しかし、一人の罪びとは多くの良きわざを滅ぼす」。