1.バベルの塔
・創世記は1-11章が原初史で、バビロン捕囚時代に最終編集された。イスラエルは紀元前587年、祖国をバビロニア帝国に滅ぼされ、指導者たちは異国の地バビロンに捕囚となった。自分たちは「選民である」という誇りを持っていたイスラエル民族にとって、この亡国・捕囚の出来事は衝撃的だった。神は何故自分たちを捨てられたのか、自分たちは異国の地で滅び去るのか、もう故郷エルサレムに戻ることはできないのかと苦悩する。70年に及ぶ捕囚の中で、彼らは祖先から伝えられた伝承を調べ、その記録がやがて創世記といわれる書にまとめられていった。
・「ノアの洪水物語」もバビロンに伝えられていたギルガメシュ叙事詩に題材を得て、裁き=洪水=国の滅亡を通して、イスラエルの民がどのようにして神の救いを見出していったかの信仰の記録である。洪水物語の焦点は洪水そのものにあるのではなく、洪水の後、「もう人を滅ぼすことはしない」と言われた神の言葉に、国を滅ぼされたイスラエルの民が希望を見出していった点にある。
-創世記8:20-22「ノアは主のために祭壇を築いた。すべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。私は、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない』」。
・その原初史の締めくくりとして、創世記11章は「バベルの塔」の物語を伝える。
-創世記11:1-4「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。彼らは『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」。
・シンアルの地はバビロンを指し、物語は都市と塔の建設というメソポタミアの歴史を背景にしている。メソポタミアでは、複数の町で最上階に神殿を築いた巨大な方形の塔(ジッグラト)が発見されている。それらは山を模した人工丘で、日干しれんがとアスファルトを用いて作られている。バビロンで見つかった粘土板に楔形文字で記された物語によれば、この塔の土台は幅と奥行が約90メートル、高さは90メートルほどあったという。バベルの塔のモデルになったのは、このジグラットだといわれる。
・国を滅ぼされたイスラエル人は強制的にメソポタミア地方に移住させられ、首都バビロンで高い塔を見せられた。バビロニア人はその塔を「エ・テメン・アンキ」(天と地の基礎なる家)と呼び、「これこそ神が立てられた世界の中心だ。我々こそ世界を治める民族であり、この塔はそのしるしだ」と誇った。イスラエル人は屈辱の中でその言葉を聞き、そのようなバビロニア人の高慢を主なる神は決して許されないと心で思い、その思いがバベルの塔の崩壊物語を書かしめたのではないかと言われている。
2.神のようになろうとする人を神は砕かれた
・バベル(神々の門、バビロンのヘブライ語読み)に代表される大都市は、古代文明の担い手であり、その首都にそびえる神殿の塔は、王国の政治的・宗教的権力の象徴だった。その大都市を拠点とするアッシリヤやバビロニアの帝国は、周辺の国々を制圧し、併合して、支配体制に組み込んでいった。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」という言葉は、自分たちが世界の中心になろうということであり、「全地に散らされることのないようにしよう」とは、周辺諸国の自由な在り方を許さないとの意思表明だ。そしてイスラエルの民も、周辺の諸民族を一つの支配体制のもとに統合しようとする、権力一元化のうねりに飲み込まれ、国を滅ぼされた。
・しかし亡国の民イスラエルは思った「私たちの神はそのような暴力を許されず、それを断ち切ろうとされるはずだ」と。その思いが5節以下の記述にあると思われる。
-創世記11:5-7「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう』」。
・こうして古代世界の中央集権国家は滅ぼされていく。アッシリヤ帝国は紀元前612年に滅亡し、バビロニア帝国も紀元前539年に滅ぶ。バビロン捕囚時代に立てられた預言者(第二イザヤ)は、バビロニア帝国を滅ぼしたペルシャ王キュロスを「主が油を注がれた人」と呼び、神がペルシャを用いて傲慢の極みに達していたバビロニアを滅ぼし、イスラエルを捕囚から解放して下さったと述べている。バベルの塔の崩壊は、直接にはバビロニア帝国の崩壊を意味していた。
-イザヤ45:1-3「主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない。私はあなたの前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える」。
・バベルの塔の物語は私たちに何を伝えるのか。「文明や技術の進歩が人間に何をもたらすのかということを見つめよ」とのメッセージがそこにある。人々は「石の代わりにれんがを、漆喰の代わりにアスファルトを用いて」、高い建築物を造ることができるようになった。技術革新がそれを可能にした。その技術革新を人間はどのように用いてきたのか。創世記4章によると、青銅や鉄を人間が見出したのは、レメクの子トバルカインの時であるといわれている。
-創世記4:22「チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった」。
・「刃物を鍛える」、人類最初の発明は、人を殺す為の銅や鉄の精錬であった。創世記記者はそこに「人間の罪」を見据えている。アルフレッド・ノーベルは土木工事や鉱山開発のための道具としてダイナマイトを発明し、それにより生産性は上がったが、やがてダイナマイトは人間を殺すための爆弾に転用されていく。ノーベルがその遺産の全てを投じてノーベル賞基金を作り、その中に平和賞を設けたのも、自分の発明が戦争に用いられ、多くの人命を奪うものになった、その悔い改めのためだと言われている。また人間は原子力を用いて病気を診断し治療し(X線や放射線治療)、発電に応用する(原子力発電)ようになるが、その原子力も軍事転用されて核爆弾を生み、ヒロシマ・ナガサキで用いられ、驚異的な破壊力を見せつけた。
・2011年に起きた福島原発事故が問いかけるのも、「人間は本当に原子力や核廃棄物を管理できるのか」という問題だ。今回の事故は津波等により、核燃料の冷却ができない状態になり、核燃料がメルトダウンし、周囲に放射性物質を拡散させた。また使用済み核燃料(核廃棄物)は完全に無害化することはできず、最終処分の方法がない。今回の原発事故をある人々は、「人間の傲慢が砕かれた現代のバベルの塔ではないか」と語る。
3.バベルの塔崩壊によって何が生まれたのか
・神はバベルの塔を壊された。創世記は語る。
-創世記11:8-9「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」。
・この言葉は神の裁きとして聞かれるが、聖書においては、「裁きこそ救い」である。神はバベルの塔を壊され、人々は全地に散らされ、互いに言葉が通じない存在になって行った。しかし、神は洪水からノア一族を救われたように、バビロニアの地から一人の人を選び出し、彼を通して、人類を救おうとされる。それが創世記12章から始まるアブラハムからのイスラエル民族の歴史であると創世記は主張する。アブラハムの出身地はカルデア(メソポタミヤ)のハランであった(創世記11:31)。
-創世記12:1-3「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』」。
・「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。アブラハムの末裔から、イエス・キリストが生まれた。イエスが地上の生涯を終えられた時、神は弟子たちに聖霊を下され、それぞれの民族にその国の言葉で福音が語られた。キリストの十字架を通して、自己中心の思いが砕かれ、相手との交わりが始まった時に、言葉は再び通じるようになることを使徒言行録は示す。
-使徒2:7-8「人々は驚き怪しんで言った『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』」。
・神はバベルにおいて傲慢な民を散らされると同時に、その民の中からアブラハムを召し出し、新しい救いを開始された。神の不思議な業は今日でも継続している。福島原発事故を通して、ドイツやスイスでは今後は原子力発電所を新しく造らず、既存の発電所も耐用年数が来れば廃棄すると発表した。日本でも原子力発電所のこれ以上の増設は中止し、自然エネルギー開発に注力するという政策の変更が為されようとしている。原子力発電所というバベルの塔が崩壊することを通して、新しい良いものが始まろうとしている。「散らされて生きる」ことの中に、神の祝福がある。