1.罪の告白が為された
・清めの月の24日、イスラエルの人々は集まり、断食し、荒布をまとい、自分たちの罪を告白した。自分たちは罪を犯したにもかかわらず、神は自分たちをバビロンから解放し、神殿の再建を許され、城壁の修復も出来た。その恵みの前に、彼らは泣きながら罪の告白をした。
‐ネヘミヤ9:1-3「その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた」。
・エズラに先導されて、彼らは最初に、天地を創造され、支配される神の御名を賛美した。
‐ネヘミヤ9:5-6「立って、あなたたちの神、主を賛美せよ。とこしえより、とこしえにいたるまで、栄光ある御名が賛美されますように。いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。あなたのみが主。天とその高き極みを、そのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものを、あなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む」。
・7節から罪責告白が始まる。民族の父アブラハムへの選びと祝福(9:7-8)、エジプトからの救出(9:9-12)、律法の付与(9:13-14)、荒野で犯した罪(9:15-21)、約束の地への定住(9:22-25)、定住後の背きの数々(9:26-28)、バビロンへの捕囚(9:29-30)が罪の告白の中で想起され、最後にそれにもかかわらず、自分たちを見棄てずに滅ぼし尽くさなかった神への感謝が祈られる。
−ネヘミヤ9:31「しかし、まことに憐れみ深いあなたは、彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず、見捨てようとはなさらなかった。まことにあなたは恵みに満ち、憐れみ深い神」。
2.悔い改めと誓約
・32節から現在の状況が語られる。先祖は罪を犯した。そのために苦難が与えられた。しかし子孫である彼らはその苦難を当然の罰として受け止める。先祖が罪を犯した故に現在の苦しみがあることに不平を言わない。
−ネヘミヤ9:32-35「今この時、私たちの神よ、偉大にして力強く畏るべき神よ、忠実に契約を守られる神よ。アッシリアの王の時代から今日に至るまで、私たちが被った苦難のすべてを、王も高官も祭司も預言者も私たちの先祖も、あなたの民の皆が被ったその苦難のすべてを、取るに足らないことと見なさないでください。このすべては起こるべくして起こったのです。あなたは正しく行動されました。あなたは忠実に行動されました。しかし、私たちはあなたに背いてしまいました。王も高官も、祭司も私たちの先祖も、あなたの律法に従わず、度重なる命令にも戒めにも耳を貸しませんでした。あなたがお与えになった国と豊かな恵みの中にありながら、あなたがお与えになった広く肥沃な土地にありながら、彼らはあなたに仕えようとはせず、不正と悪行を改めようとはしませんでした」。
・先祖の罪によって、今自分たちは奴隷の身にある。ペルシア帝国の植民地となり、独立はない。彼らはそれを嘆くが、その苦難からの解放を願わない。自らの不義と苦しみを認め、神との新しい盟約に入ろうとしている。救いを願っている間はまだ本当の悔い改めではない。真の悔い改めは現在の困難を認識し、それが自分たちの罪の故であること認め、全てを神に委ねる所から起こる。救いは求めるものではなく、恵みなのである。
-ネヘミヤ9:36-37「御覧ください、今日、私たちは奴隷にされています。先祖に与えられたこの土地、その実りと恵みを楽しむように、与えられたこの土地にあって。御覧ください、私たちは奴隷にされています。この土地の豊かな産物も、あなたが私たちの罪のためにお立てになった諸国の王のものとなり、私たち自身も、家畜も、この支配者たちの意のままにあしらわれているのです。私たちは大いなる苦境の中にあるのです」。
・放蕩息子の悔い改めもそうであった。彼はもう息子と呼ばれることを求めない。父の雇い人の一人とされても当然だと思った。本当の困難を体験した者は、将来をただ神に委ねる。その時、救いが起こる。
-ルカ15:16-21「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう“お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください”と』。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』」。
・そして神は真に悔い改める者を赦して下さる。それが聖書の語る神である。
−ヨエル2:12-13「主は言われる『今こそ、心から私に立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け』。あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」。
・ネヘミヤ9章にある悔い改めは民族の罪の告白であり、共同体の悔い改めだ。人は個人である以上に、神の前で共同体の一員として罪を告白し、悔い改め、新しい共同体を形成していく。その祈りの一つが戦争に負けたドイツの教会が行ったシュトットガルト罪責告白である。
-シュトゥットガルト罪責宣言「ドイツ福音主義教会常議員会は、シュツットガルトにおいて1945年10月18,19の両日開催された会議に際し、世界教会協議会の代表に対して、挨拶を送る。われわれは、国民と共に、苦難の大いなる共同体の中にあるのみならず、罪責の連帯性の中にもあることを自覚し、・・・大いなる痛みをもって次のように言う・・・われわれは、国家社会主義の暴力的支配の中にその恐るべき姿をあらわした霊に抗して、長い年月の間、イエス・キリストの御名において戦って来た。しかしわれわれはさらに勇敢に告白しなかったこと、さらに忠実に祈らなかったこと、さらに喜びをもって信じなかったこと、そしてさらに熱烈に愛さなかったことを、自らに向かって責めるものである。今こそわれわれの教会の中に、新しい始まりが起こされねばならない。聖書に根ざし、全き真実をもって教会の独一の主を基いとしながら、教会は、信仰に関わりのないものの影響から身を清め、自分自身の秩序を整えることを始める。われわれは、恵みと憐れみの神に、われわれの教会を神が道具として用い給い、また、御言葉を宣べ伝える全権と、われわれ自身ならびに全国民の間に御心に対する従順を造り出す全権とを、神が教会に与え給わんことを願う・・・われわれは神に願う。諸教会の共同の奉仕を通して、今日新しく力を得ようとしている暴力と復讐の精神が全世界において抑止され、悩み苦しむ人間がそこにおいてのみ癒しを見出しうるような、そういう平和と愛の精神が支配する日が来るようにと。そこでわれわれは、全世界が一つの新しい始めを必要としている時にこそ、『来たり給え、造り主なる御霊よ』と祈る」。