1.敵の妨害に直面して
・エルサレム城壁の再建工事が進展するに従い、敵の妨害工事も具体化してきた。サマリヤ人、アンモン人、ペリシテ人たちは共同してエルサレムに攻め込む構えを見せた。エルサレム城壁の強化は彼らの既得権益を失わせるからだ。
−ネヘミヤ4:1-2「サンバラトとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドドの市民は、エルサレムの城壁の再建が進み、破損の修復が始まったと聞いて、大いに怒った。彼らは皆で共謀してエルサレムに攻め上り、混乱に陥れようとした」。
・それに対してネヘミヤたちは神に祈り、防御策を講じる。しかし民の中には、弱気になる者も出てきた。
−ネヘミヤ4:3-4「私たちは私たちの神に祈り、昼夜彼らに対し、身を守るために警戒した。しかし、ユダもこう言うのだった『持っこを担ぐ力は弱り、土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など私たちにはできません』」。
・ネヘミヤは敵の情報を探り、有効な防御策を立てる。具体的には城壁の弱い部分に戦闘員を置き、防御を命じた。人も装備も十分ではなくとも、「神の助けはわが方にあり」とネヘミヤは励ます。
−ネヘミヤ 4:5-8「私たちの敵はこう言っていた『気づかれず、見つからないように侵入し、彼らを打ち殺して、工事をやめさせよう』。彼らの近くに住むユダの人々がやって来て、十度も私たちに『あなたたちが戻ると、あらゆる所から私たちは攻められます』と言った。そこで私は城壁外の低い所、むき出しになった所に、各家族の戦闘員を、剣と槍と弓を持たせて配置した。私は見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った『敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱え、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え』」。
・敵はユダの防御体制が整ったことを知り、攻撃を取りやめる。しかし、いつ襲ってくるかわからない。ネヘミヤは人員の半数を工事に、残り半数を防備に回す。危険があっても工事を止めず、対処しながら工事を進めた。
−ネヘミヤ4:9-12「私たちが気づき、神がその計略を破られたことを敵が知ったので、私たちは皆、城壁に戻り、それぞれ自分の作業に就いた。その日から私の部下たちは、半分が作業に従事し、他の半分が槍と盾、弓と鎧を身に着け、将校たちがユダの家全体の背後に控えた。城壁を築く者、持っこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。建築作業をする者は、各自腰に剣を帯びて作業した。私はそばに角笛を吹く者をつけた」。
2.妨害があっても工事は止めない
・彼らは妨害があっても工事を止めなかった。それは「城壁再建工事は神の命じた業であり、妨害は神の計画への挑戦である」との堅い信念があったからだ。その信念が民族を一丸にした。
−ネヘミヤ4:13-17「私は貴族と役人と他の戦闘員に言った『仕事が多く、範囲は広い。私たちは互いに遠く離れて城壁の上に散らばっている。角笛の音を聞いたら、私たちのもとに集まれ。私たちの神は私たちのために戦ってくださる』。夜が明けてから星が現れるころまで私たちは作業に就き、部下の半分は槍を手にしていた。このころ私は戦闘員に言った『各自、自分の部下と共にエルサレムの城壁内で夜を過ごしなさい。夜は警備に当たり、昼に仕事をしよう』。私も、兄弟も、部下の者も、私に従う警備の者も、私たちはだれも、服を脱がずにいて、各自投げ槍を右の手にしていた」。
・共同体が何かをしようとする時、そこに必ず妨害と困難が生じる。ある者たちは困難に怖気づき、行動を後退させる。カナンの地を偵察したモーセの部下たちは敵が強大で、その城壁が堅固であることを見て怖気づき、出てきたエジプトに戻ろうと主張した。
−民数記13:28-14:3「『その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます・・・あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い』。
共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った・・・『エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ』」。
・しかし、恐れに打ち勝って事業を進めようとする人もまた必ずいる。
−民数記14:6-9「土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた『我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない』」。
・モ−セは民をまとめることが出来ず、そのために民は40年間の荒野の放浪をやむなくされ、モーセ自身も約束の地に入ることを拒絶される。モーセの指導力不足である。
−申命記1:34-37「主はあなたたちの不平の声を聞いて憤り、誓って言われた『この悪い世代の人々のうちで、私が与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない。ただし、エフネの子カレブは例外である。彼だけはそれを見るであろう。私は、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである』。主は、あなたたちのゆえに私に対しても激しく憤って言われた『あなたもそこに入ることはできない』」。
・戦争と平和の問題をキリスト者はどう考えるべきなのか。同じ状況にあると思われる。紀元56-57年ごろ、パウロはローマ教会に当てて手紙を書いた。やがて、この手紙は正典の一部となり、権威を持つようになる。パウロは手紙の中で語る。
−ローマ13:1「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」。
・初代教会はイエスの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43)という言葉を基礎に、キリスト者が兵士になるのを禁じたが、コンスタンチヌス後の教会はこのローマ13章をもとに、キリスト者も国家の命じる戦争には従うべしとする聖戦論を展開する。その後、ローマ13章は宗教改革時において、ルターとミュンツアーの間で農民戦争をめぐって論争された時の双方の根拠とされ、1930年代のドイツにおいては、ナチス政権の正当性をめぐるルター派教会とバルトを中心とする告白教会の論争においても中心テーマとなった。国家をめぐる神学論争においては、常にローマ13章が大きな役割を演じてきた。
・ローマ13章の議論を見る限り、一つのテキストから一つの倫理を抽出するのは難しいと思える。教会と国家のあり方においても、最終的には聖書全体から考察せざるをえない。その時、カー・バルトの「キリスト者共同体と市民共同体」(1946年)という小論に惹かれる。
−論文の概要「市民共同体という大きな外円の中に、キリスト者共同体という内円があり、教会は社会の庇護のもとに、世の光としての役割を与えられている存在である。社会も教会も同一の同心円の中にあるから教会は外円の社会を尊重するが、同時に自分たちが内円であることを深く認識する。そして「教会とても、やはり国家と同じく、いまだ救われざる世界にある」を認識し、教会は「市民共同体の只中にあって、神の国を想起させる」役割を持つことを覚える。教会は神の国の宣教という本来の役割を果たすことによってその使命を全うする。教会は神に奉仕することによって人間に奉仕する」。
−植村正久は語る「福音の伝播が、教会を社会の木鐸にする」。聖書をそのテキストの文脈の中で正しく読み、かつ置かれた今の時代の文脈の中でその使信を再解釈し、祈って決断する。そのことにより、キリスト者は地の塩、世の光とされる。一律的なキリスト教倫理はありえないのではないか。