1.十分の一を捧げよ
・マラキ書は前460年頃に書かれた。捕囚から帰還した人々は神の宮であるエルサレム神殿を再建すれば祝福が再び来ると信じ、神殿の再建に取り組み、神殿は完成した。しかし何も変わらなかった。国の独立は起こらず、飢饉やいなごの害で収穫は少なく、人々は神の愛を疑い始め、「主は本当におられるのか。私たちのことを気にしておられるのか」と問い始めていた。
−マラキ2:17「あなたたちは、自分の語る言葉によって主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う『どのように疲れさせたのですか』、と。あなたたちが『悪を行う者はすべて、主の目に良しとされる』とか、『主は彼らを喜ばれる』とか、『裁きの神はどこにおられるのか』、などと言うことによってである」。
・緊張感の喪失の中で、礼拝は形骸化し、結婚の神聖さは破られ、寡婦や孤児、寄留者に対する配慮は失われ、賃金はごまかされていた。その民にマラキは、「主が使者を送られ、正しい者を清められ、悪を行う者を裁かれる」と語りかける。
−マラキ3:1-5「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる・・・だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は、遠い昔の日々に過ぎ去った年月にそうであったように、主にとって好ましいものとなる。裁きのために、私はあなたたちに近づき、直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、私を畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる」。
・人々が求めるのは「繁栄の神学」だ。神を崇めるのはご利益があるからであり、ご利益がなくなると「神を崇めても何の甲斐もない」とつぶやき始める。
−マラキ3:14-15「あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ』」。
・その彼らにマラキは言う「そんなことはない。あなたたちが真剣に自分の持てる最善のものを捧げた時、主は必ず応答してくださる」と。何故飢饉やいなごの害が生じたのか、それはあなたたちが真剣に祈らなかったからだ。体を張って、痛みを覚えて、捧げてみよ、主は豊かな雨を下さり、作物は豊かに実り、収穫がいなごによって荒らされることは無くなるだろうとマラキは預言する。
−マラキ3:10-12「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。また、私はあなたたちのために、食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる。諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」。
2.旧約から新約へ
・マラキ書は主の救いの日の前に、預言者エリヤが遣わされるだろうという預言で終わる。
−マラキ3:23-24「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」。
・エリヤの役割は主が来られる前に、その道を整えることである。
−マラキ3:1「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」。
・福音書記者はこのマラキの預言が洗礼者ヨハネの到来によって成就されたと理解した。
−マルコ1:2-4「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』。その通り、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。
・イエスはヨハネから洗礼を受け、ヨハネ教団の中で訓練を受けられた。ヨハネはイエスを世に送るために立てられた。イエス自身、ヨハネこそ最後の預言者、エリヤであると認識されていた。
−マタイ11:7-11「ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。『あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか・・・預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。 見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させようと書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である』」。
・しかし、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」、私たちは往々にしてヨハネの使信を語っている「罪を認めよ。悔い改めなければ救いはない」とか、「信じよ。信じない者は地獄に行く」。私たちがそう語る時、それはイエスの福音ではなく、ヨハネの伝えた審判の言葉である。ヨハネの時代、預言者の時は終わった。「人はすべて無条件で救われる。それを受け入れた時、現在の生が神の国になっていく」、それがイエスの福音である。
−マタイ7:7-11「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。