1.知恵の招き
・箴言は1〜9章がその第一部であり、そこでは「知恵の賛美」がなされ、9章は第一部のまとめとなる。8章に続いて知恵が人格化され、知恵の招きと愚かさの招きが対比されている。最初に知恵は7つの柱を持つと記される。神は7日で天地を創造された。7は聖書においては完全数である。
−箴言9:1「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」。
・後代の人々はこの「知恵の7柱」という言葉の中に、特別の意味を見出した。「アラビアのロレンス」として知られた考古学者エドワード・ロレンスは、自身が関与したアラブ独立運動の歴史を「知恵の七柱」として出版し、今日でも古典として読まれている。日本総合研究所は2011年6月に震災復興のための提言を「復興の七柱」としてまとめた。いずれも箴言9章から取られている。
・箴言9章の本文では知恵が主催する宴と、愚かな女が主催する宴の違いが対比されて記される。知恵は最良の食物とぶどう酒を用意して人々を招く。分別の道を教えるためである。
−箴言9:2-6「(知恵は)獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え、はしためを町の高い所に遣わして、呼びかけさせた。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい』。意志の弱い者にはこう言った。『私のパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために』」。
・イエスは新約聖書では「神の知恵」と呼ばれている。しかし、イエスの招きに応えた者は少数であった。皆、自分の生活を優先していたからである。
−ルカ14:16-24「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った・・・主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない』」。
・聖書学者の大貫隆は、ルカ「盛大な宴会」の喩えで、人々は「多忙を理由に出席を断る」が、それを次のように解説する「日常的・連続的時間(クロノス)の根強さがここにある。仕事に追われて宴会どころではない。神の国、そんな話を聞いている暇はさらにない。イエスの『今(カイロス)』が、生活者の『クロノス』と衝突し、拒絶される」(大貫隆『イエスという経験』(p.96))。しかし、「今に忙殺され、将来を考えようとしない」現代人も、人間存在の根底的問題、「死」に直面した時は平気ではいられない。1985年8月12日、日航機が群馬県上野村御巣鷹山中に墜落し、520名の方々が亡くなったが、28年後の今も遺族は慰霊登山を続ける。彼らにとって事故は終わっていない。親しい者の死を通して、「“カイロス”の意味を尋ね続ける」時に変わる出来事が起きている。知恵の招きもいつかその意味がわかる時が来る。
−箴言5:12-14「どうして、私の心は諭しを憎み、懲らしめをないがしろにしたのだろうか。教えてくれる人の声に聞き従わず、導いてくれる人の声に耳を向けなかった。会衆の中でも、共同体の中でも、私は最悪の者になりそうだ」。
2.愚か者の招き
・それに対して愚かな女の提供する宴は、「盗んだ水と隠れて食べるパン」である。それは死をもたらす禁断の食べ物として描かれる。
−箴言9:13-18「愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。自分の家の門口に座り込んだり、町の高い所に席を構えたりして、道行く人に呼びかける。自分の道をまっすぐ急ぐ人々に。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい』。意志の弱い者にはこう言う。『盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ』。そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」。
・禁じられた果実は人を魅惑する。角田光代著「紙の月」では、銀行に勤めるアルバイト主婦が、夫の「誰が養っていると思っているのだ」という言葉に衝撃を受け、自分の自由になるお金を求めて横領を繰り返し、破滅する様が描かれている。人は退屈な日常からの解放を求めて禁断の実を食べてしまう。
−創世記3:4-7「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。
・しかし救いはそこから始まる。人はエデンの園を追い出されることを通して、自分の限界を知り、また罪を犯してもなお神の保護下にあることを知る故に神の知恵を求める。そして言う「主を畏れる事こそ知恵の初め」と。
−箴言9:10-12「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。私によって、あなたの命の日々もその年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」。
・パウロはこのアダムとエバの過ちはイエス・キリストによって覆われたと記す。人は過ちを犯してもなお神の保護下にある。これこそ福音=良い知らせであろう。
-1コリント15:20-22「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。