1. 徹底した滅亡の預言
・アモスはイスラエルの裁きが不可避であることを、第三の幻(測り縄の幻)、第四の幻(夏の果物の幻)で確認した。その彼に第五の幻が与えられる。大地震とその後に来る殺戮の幻だ。
-アモス9:1-4「私は祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた『柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、私が剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者は一人もない。たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、私はそこからこの手で引き出す。たとえ天に上っても、私はそこから引き下ろす。たとえ、カルメルの頂に身を隠しても、私はそこから探し出して連れ出す。たとえ、私の目を逃れて海の底に隠れても、そこで蛇に命じてかませる。たとえ捕らわれ、敵の前に連れて行かれても、そこで、剣に命じて殺させる。私は彼らの上に目を注ぐ。それは災いのためであって幸いのためではない」。
・アモスの見たものは、大地震とそれに続く敵の侵略と殺戮の幻であった。前722年のイスラエルの破壊は徹底的で、住民は全てアッシリアに強制移住させられ、戻ることもなく、イスラエル10部族は消滅した。
-列王記下17:3-6「アッシリアの王は、(イスラエル王)ホシェアが謀反を企てて、エジプトの王ソに使節を派遣し、アッシリアの王に年ごとの貢ぎ物を納めなくなったのを知るに至り、彼を捕らえて牢につないだ。アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた」。
・7節からの言葉はイスラエル選民思想を真っ向から否定する。「ペリシテ人をクレタ島から、アラム人をメソポタミヤから引き出したのも主なる神だ」とアモスは言う。神はすべての民族の父である。人間の立場から見ればイスラエルは神の選民だ。しかし神の立場から見れば、イスラエルも多くの民族の一つに過ぎない。
-アモス9:7-8a「イスラエルの人々よ。私にとってお前たちは、クシュ(エチオピア)の人々と変わりがないではないかと主は言われる。私はイスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラム人をキルから、導き上ったではないか。見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け、これを地の面から絶たれる」。
2.滅亡後の救済預言
・8節後半から「残りの者を残す」との預言が語られる。イスラエル滅亡時に多く人々が南のユダ王国に逃げ込み、その中にアモスの弟子たちもおり、アモス書は南ユダで編集されたと言われる。
-アモス9:8b-10「ただし、私はヤコブの家を全滅させはしないと主は言われる。見よ、私は命令を下し、イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。ふるいにかけても、小石ひとつ地に落ちないように。わが民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ。彼らは、災いは我々に及ばず、近づくこともない、と言っている」。
・11節以降の「後の日の回復預言」がアモス自身のものか、それとも捕囚期以降の付加であるかについて、学説は分かれる。多数説はユダ滅亡後のダビデ王家の回復願望と読むが、ここではアモスの真正預言として、王国分裂後の北王国の滅亡も、やがて統一王国の復興という形で回復されるという意味に理解する。しかし、歴史上はイスラエル10部族の回復はなかった。
-アモス9:11-15「その日には、私はダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃虚を復興して、昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者とわが名をもって呼ばれるすべての国を、彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。私はわが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み、ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から、再び彼らが引き抜かれることは決してないとあなたの神なる主は言われる」。
・失われた10部族の回復はその後もイスラエル民族の悲願であった。イエスの生まれたガリラヤ地方はかつてのイスラエル王国の領土であり、マタイはイエスのガリラヤ宣教を失われた10部族の回復預言で修飾する。
-マタイ4:12-17「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』。そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。
*アモス9章参考資料;アモス書を現代の私たちはどう読むか
・アモス書にあるのは、正義(ミシュパート)と公平(ツエダカー)を忘れた民への裁きである。
-アモス2:6-8「イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、私は決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている・・・祭壇のあるところではどこでも、その傍らに質にとった衣を広げ、科料として取り立てたぶどう酒を、神殿の中で飲んでいる」。
-アモス5:10-13「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う。お前たちは弱い者を踏みつけ、彼らから穀物の貢納を取り立てる・・・お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている」。
-アモス6:4-6「お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き、竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない」。
・一部の特権階級は豪奢な生活を楽しむが、それが貧しい者の搾取の上になり立ち、貧しい者は公平な裁判も受けられず、借金を返せなければ奴隷として売られていった。この社会正義の欠如と貧富の格差の拡大をアモスは主との契約を忘れた宗教性にあると見て、その祭儀を批判する。
-アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ焼き尽くす献げ物を私に捧げても、穀物の献げ物を捧げても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ・・・正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。
・ボンヘッファーは述べる「われわれが、今日、キリスト者であるということは、ただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」(ボンヘッファー獄中書簡集「抵抗と信従・増補新版」)。今日も社会正義の欠如と貧富の格差の拡大がある。キリスト者はこのような社会に怒り、もっと政治に関心をもつべきではないだろうか。預言者の発言は今日的に見ればまさに政治に対する発言なのである。
−森嶋通夫「なぜ日本は没落するのか」(1999年)から「(日本の経済は一流であるが政治は三流だといわれる。それは世襲を続ける)政治グループのせいではなく、(そういう状態を打ち破れない)政治グループ外の人の政治的無気力のせいであろう。政治が悪いから国民は無気力であり、国民が無気力であるから政治は悪いままでおれるのだ。こういう状態は、今後50年近くは確実に続くであろう。そのことから私達が引き出さねばならない結論は、『日本の没落』である。政治が貧困であるということは、日本経済が経済外的利益を受けないということである。それでも『ええじゃないかええじゃないか』と踊り狂うしか慰めがないとしたら、私達の子供や孫や曾孫があまりに可愛そうだ」。