1. アッシリア滅亡の嘲笑
・ナホム書は諸国を苦しめてきたアッシリア(ニネベ)の没落を喜ぶ書である。3章では前612年ニネベの町が侵略され、征服される様が描かれている。その基調は「血を流した町は血を流される」という報復感情である。
−ナホム3:1-3「災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち、人を餌食にすることをやめない。鞭の音、車輪の響く音、突進する馬、跳び駆ける戦車。騎兵は突撃し、剣はきらめき、槍はひらめく。倒れる者はおびただしく、しかばねは山をなし、死体は数えきれない。人々は味方の死体につまずく」。
・アッシリアは世界史の中で、「暴虐の征服者」として知られる。アッシリアは300年にわたって中東世界を支配してきた。イザヤ書は前701年頃のエルサレム包囲戦におけるアッシリアの傲慢な態度を記録している。
−イザヤ36:13-20「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。王はこう言われる『ヒゼキヤにだまされるな・・・『主は我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか・・・これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したか。それでも主はエルサレムを私の手から救い出すと言うのか」。
・アッシリアは長年の悪行の報いを今受ける。隣人の血を流した者は、自分たちの血でその贖いを為さねばならない。「ニネベは姦淫を犯した女が辱められるように辱められる」とナホムは歌う。
-ナホム3:4-7「呪文を唱えるあでやかな遊女の、果てしない淫行のゆえに、彼女がその呪文によって諸民族を、淫行によって国々をとりこにしたゆえに、見よ、私はお前に立ち向かうと万軍の主は言われる。私は、お前の裾を顔の上まで上げ、諸国の民にお前の裸を、もろもろの王国にお前の恥を見せる。私は、お前に憎むべきものを投げつけ、お前を辱め、見せ物にする。お前を見る者は皆、お前から逃げて言う『ニネベは破壊された。誰が彼女のために嘆くだろうか』。お前を慰める者はどこを探してもいない」。
・かつてアッシリアはナイル川の天然を利用した強固な要塞の町テーベを征服し、破壊した(前663年)。今要塞都市ニネベも今回は新興国バビロニアによって破壊されるとナホムは預言する。
−ナホム3:8-11「お前はテーベにまさっているか。ナイルのほとりに座し、水に囲まれ、海を砦とし、水を城壁としていたあの町に・・・彼女もまた捕らえられ、捕囚として連れ去られた。乳飲み子すら、すべての街角で投げ捨てられ、貴族たちは籤で分けられ、大いなる者も皆、鎖につながれた。お前もまた、酔いつぶれて我を失う。お前もまた、敵を避けて逃げ場を求める」。
2. 神の正義とは何か
・12節以下では世界帝国アッシリアがいちじくの木に、要塞がその実に喩えられる。実は熟し切っており、木を揺すれば労せずに美味が味わえると。ここには神の名は登場しない。あるのは、衰退した仇敵に対する嘲笑である。ある人は言う「ナホムは本当に預言者なのか。自身の感情の激するままに語っているのではないか」と。
−ナホム3:12-17「お前の要塞はどれも初なりの実をつけたいちじくの木だ。揺さぶれば、実が食べる者の口に落ちる。見よ、お前のうちにいる兵士は、敵にとって女のようだ。お前の国の門は広く開かれ、かんぬきは火で焼き尽くされる。籠城に備えて水をくみ、要塞を堅固にせよ。泥の中に入って、粘土を踏み、れんがの型を固く取れ。その所で、火はお前を焼き尽くし、剣はお前を断つ。火はいなごが食い尽くすようにお前を食い尽くす・・・お前は空の星よりも商人の数を多くした。しかし、いなごは羽を広げて飛び去るのみ。お前を守る部隊は、移住するいなごのように、お前の将軍たちは、群がるいなごのように、寒い日には城壁の間に身をひそめ、日が昇ると飛び去り、どこへ行くのかだれも知らない」。
・前612年アッシリアは滅ぶ。アッシリアは国だけで無く、民族も都市も徹底的に滅ぼし尽くされ、二度と再建されなかった。アッシリアはその残虐性と容赦のなさにより、世界中の国々から憎まれていた。
−ナホム3:18-19「アッシリアの王よ、お前の牧者たちはまどろみ、貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ、集める者はいない。お前の傷を和らげるものはなく、打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆、お前に向かって手をたたく。お前の悪にだれもが常に悩まされてきたからだ」。
・ナホム書にはニネベの市民に対する愛や関心は全くない。ニネベ救済のために預言者が遣わされるヨナ書と対照的だ。それはナホム書が裁きの書だからである。どの時代にも残虐な支配者が現れ、多くの人が苦しめられ、死んでいった。その時人は思う「これらの暴虐に対して神が行為されないとしたら、果たして神は正義の神なのであろうか」と。ナホムは徹底した審判を通して、「神は生きておられる」ことを証ししようとした。
*ナホム3章参考資料「神はどのようなお方なのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)から」
・「現代のヨブ記」は、幼い息子を早老病という難病で亡くしたユダヤ教のラビが,ヨブ記を例にとりながら,神とはなにか、信仰とは何かを問うた著である。ヨブ記では、神自身がこの世で最も正しいと認めているヨブという男が、何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされる。3人の友人が、それぞれにヨブを元気付けようとして繰り広げる説明は、神は「善にして全能の神のすることに間違いはない」である。しかし、ヨブは納得しない。逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人達を責める。そして、友人達はヨブが神に対して罪を犯したと言って責める。ヨブは神に対して説明を求める。
・本著の著者は、ヨブ記が示すものを三つの命題として提示する。
(1)神は全能であり、世界で生じる全ての出来事は神の意志による。神の意志に反しては何事も起こらない。
(2)神は正義であり、公平であって、善き人は栄え、悪しき者は処罰される。
(3)ヨブは正しい人である。
・ヨブ記ではこの三つの命題が対立する構図を取っている。
-3人の友人達は命題(1)神の全能と(2)神の正義を主張し、(3)ヨブの正しさを切り捨てた。
-ヨブは(3)自分は正しいと主張し、不幸のどん底に落とされる程の罪は犯していないと考える。そしてヨブは命題(1)神の全能を信じている。結果として命題(2)神の正義を疑い、神に説明を求める。
-著者は、この2視点を俯瞰しているヨブ記の記者は、このどちらの見方も否定していると考えている。ヨブ記の記者が神に最後に語らせた神の創造の業の話は、命題(1)神の全能が間違っていることを示すと考える。著者は「自身の善や正義の為の摂理によって不条理な事件・事故・病気で多くの人々を死なせる神など信仰するに値しないと断言する。それは、ただの独裁的で横暴な神でしかない」と。
・著者の信じる神は正義であって人々に幸せになって欲しいと本気で望んでいる。不条理は神が人の罪に対して起こす罰や、人知では計り知れない神の摂理で起こる事などではない。ただ不条理な事象として起こる。神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができないのだと考える。著者は神の力は他のいかなるものよりも大きいが、論理を矛盾させたことまでできるわけではないし、この世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行するような独裁的専制君主などではないと認識しているのである。
・神は混沌に秩序を与えるために世界を創造された。神の創造は今も行われている。つまり、混沌がまだ残されている。その混沌を私たちは「不条理」と呼ぶ。著者は言う「病人や苦痛に苛まれている人が『一体私がどんな悪いことをしたというのか』と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは『こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか』である。
・カトリックの司祭、レオン・デュフェールは語る「神と聞くと、人はよく、至高の存在であり、その超越性の故に世のはるかかなたに在るばかりか、世に住む人々を厳しく裁く審判者を思い描く。ところが、聖書に啓示された生ける神はこのような存在とは無縁である」(「死の神秘、死を前にしたイエスとパウロ」(1986年、あかし書房)。ナホムの神とイエスの神は異なる方であろうか。