1. ヨブの悔い改め
・苦難の中で苦しむヨブに神が現れ、創造世界の多様さと永遠性が示される。創造(地球の誕生)から現在まで46億年の時間が流れ、その中で人は70年、80年の人生を生きる。ヨブの存在も相対化され、創造世界の一部に過ぎないことが示される。「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」と問われても答えることが出来ない。
−ヨブ記38:1-4「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。
・神の二回目の顕現においては、「お前は自己を無罪とするために、私を有罪とするのか」と問われる。お前は神なのか、被造物に過ぎないではないかと問われた時、私たちは反論の言葉を失う。
−ヨブ記40:6-8「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか」。
・ヨブの問題は神の出現により解決されたわけではない。しかしヨブが自分の無罪を主張し、「神が間違っている」と叫んだ時に、ヨブの罪がそこに明らかになり、ヨブは神の前に悔い改める。
−ヨブ記42:1-6「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』。そのとおりです。私には理解できず、私の地識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。 『聞け、私が話す。お前に尋ねる、私に答えてみよ』。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。
・ヨブは、今まで教義として人に聞いて知っていた神を、今は主体的に自分の神として見た。「今、この目であなたを仰ぎ見ます」、神との出会い体験こそ人を真の信仰者にする。十字架で逃げた弟子たちが集められたのも復活のイエスとの顕現を通してであった。
−使徒言行録2:22-32「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました・・・このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました・・・私たちは皆、そのことの証人です」。
2.ヨブの回復
・主はヨブの悔い改めを受け入れると共に、三人の友人たちを叱責される。彼らはよく知りもしない神について、誤った教理を述べて、ヨブを苦しめたからだ。
−ヨブ記42:7-9「主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった『私はお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、私について私の僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつ私の僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、私の僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。私はそれを受け入れる。お前たちは私の僕ヨブのように私について正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう』。テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた」。
・ヨブ記は三人の友人への叱責を通して、「応報思想」を否定する。正統信仰の誤りは、意見の異なる人々を否定し、裁くことである。中世の異端裁判や十字軍、近世の新大陸やアフリカ植民地への強制的宣教等はその例である。イエスにあって後の教会になかったのは、寛容であった。ルターやカルヴァンさえも再洗礼派やその他の運動を異端として弾圧した。現代の教会の問題の一つも、この宗教的不寛容である。
−マタイ7:1-3「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。
・ヨブが友人のために執り成しの祈りをした時、主はヨブの苦難を取り除かれた。人は隣人のために働き始めた時に救われることをヨブ記は示しているようだ。
−ヨブ記42:10-11「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った」。
・その後のヨブへの祝福は古代的、応報的である。この部分は不要ではないかと思える。不条理は不条理のままで、苦難は苦難のままで良いのではないか。救済とは苦難や不条理が取り除かれることではなく、苦難の意味が変えられることにあるのではと思える。
−ヨブ記42:12-16「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた」。
*ヨブ記42章参考資料「旧約における創造と救済」(関根正雄論集から)
・フォン・ラートは「旧約聖書の信仰は出エジプトから始まる歴史における救済が中心である」とするが、関根は「この見方は妥当であるが、同時に創造論の視点も必要だ。例えば、ヨブ記の苦難は創造世界の破れであり、創造から出発し、救済に至るという見方が妥当ではないか」と言う。ヨブ記においては「苦難は罪の結果であり、その応報である」という応報思想は否定される。その時、出てくるのが、「苦難の無意義性」である。
・人は苦難の意味が理解できる限り、その苦難に耐えていける。しかし、苦難の意味がわからなくなった時、人は神を疑う。創造の意味の否定を通して、初めて救済の世界が開ける。創造の意味がなくなった時、なお神を信じ得るか、それとも神も仏もないとして創造者を否定していくのかが分かれてくる。ヨブはあくまでも神を求めて行った。
−ヨブ記9:20-24「私が正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。無垢かどうかすら、もう私は知らない。生きていたくない。だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」。
・ヨブ記の中心は19章であろう。神を信じることができなくなった人は仲保者を求める。そこには「人間の苦難のどん底こそ神の恵みの頂点であり、人間の努力の道の終わりこそ、神の道の初めである」という信仰がある。
−ヨブ記19:25-27「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
*戦後処刑されたBC級戦犯の悲劇を描いた「私は貝になりたい」の原作者・加藤哲太郎氏はその遺書の最後に、「私は貝になりたい」と書く。仲保者なしには不条理を受け入れることは難しい。
「もし私が、こんど日本人に生まれ変わったとしても、決して、あなた(天皇)の思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません・・・けれど、こんど生まれかわるならば、私は日本人になりたくはありません。いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生まれません。人間にいじめられますから。どうしても生まれかわらねばならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にへばりついて何の心配もありませんから。何も知らないから悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなる事もないし、兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもないし、どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」。