1. 神は人間だけのために存在するのではない
・神はヨブに対して創造世界の神秘を示し、「お前が天地を造ったのか、お前があらゆる生き物を生かしているのか、お前の苦難はこの創造世界の中心なのか」と問われた。そう問われた時、ヨブは神の前に平伏せざるを得ない。ヨブの問題は解決されなかったが、解消した。苦難の意味がわからずとも良いことを知った。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。
・しかし、ヨブの悔い改めはまだ十分ではない。ヨブが求めたのは神の義ではなく、自己の義であった。ヨブは「自分は正しく神は間違っている」と主張した。そこにこそ、「自らを神にしようとする」ヨブの罪がある。
−ヨブ記40:6-10「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく腰に帯をせよ。お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために私を有罪とさえするのか。お前は神に劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。威厳と誇りで身を飾り栄えと輝きで身を装うがよい」。
・人間は「もし神が義であるなら、悪はどこから来るのか」とうそぶく。しかし、このような神義論は人間の罪を棚上げにしている。何故悪があるのか、聖書は「悪は人間の罪から来る」と示唆する。
−イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。
・ヨブ記が示す方向性も同じだ。「何故悪があるのか、それは神が悪人をも生かそうとされているからだ」とヨブ記は語る。神は悪人でさえ、悔い改めて戻ることを待ち望んでおられる。それ故、悪に対する猶予があると。
−ヨブ記40:11-14「怒って猛威を振るい、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、私はお前をたたえよう。お前が自分の右の手で勝利を得たことになるのだから」。
2.ベヘモットとレビヤタンを見よ
・40章後半からベヘモットとレビヤタンの記事が登場する。古代神話に描かれる混沌の原始時代の陸と海の怪物で、長い間実在の存在と思われ、中世まではサタン(龍)の別名とされていた。
−ラテン語エズラ記6:47-52「五日目にあなたは、水が集まっている第七の部分に、生き物や鳥や魚を生み出すように命じられました・・・それからあなたは、二つの生き物をえり分けられ、その一つをベヘモット、もう一つをレビヤタンと名付けられました。そしてあなたは、両者を互いに引き離されました。水が集まっている第七の部分に両者を置くことができなかったからです。そしてベヘモットには三日目に乾いた土地の一部を与え、そこに住むようにされました。そこは一千の山のある土地でした。レビヤタンには水のある第七の部分をお与えになりました。あなたはこの二つを保存し、あなたのお望みのとき、お望みの人々に食べさせるようにされました」。
・旧約神話の源流はメソポタミアの創造神話の中にある。そこでは怪物たちが征服されて混沌が秩序に変わる、それが創造だとされていた。しかし旧約の人々はそのような怪物もまた神の支配下にあると理解した。
−ヨブ記40:15-24「見よ、ベヘモットを。お前を造った私はこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。見よ、腰の力と腹筋の勢いを。尾は杉の枝のようにたわみ、腿の筋は固く絡み合っている。骨は青銅の管、骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。これこそ神の傑作、造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。山々は彼に食べ物を与える。野のすべての獣は彼に戯れる・・・川が押し流そうとしても、彼は動じない。ヨルダンが口に流れ込んでも、ひるまない。まともに捕えたり、罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか」。
・具体的な叙述としてはナイルに住む河馬が考えられている。後半のレビヤタンは鰐が想定されているようだ。そこにあるのは決して人間の自由にならない存在があるが、それもまた神の創造物であるという主張である。ジョン・ホッブスはその著で国家をリヴァイアサン(レビヤタン)的存在として論じた。
−リヴァイアサン(Leviathan)「トマス・ホッブズが著した政治哲学書。1651年に発行された。題名は旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。ホッブズは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」であるとし、この混乱状況を避けるためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を政府(リヴァイアサン)に対して全部譲渡(という社会契約を)するべきである」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。ホッブズは人権が寄り集まって国家をつくるのだと考えた。すなわち国家機構は、厖大な人間が集まってつくりあげられた巨大な“人工人間装置”のようなものではないか、それは幻獣リヴァイアサンのようなものではないかと考えたのである。
・神は人間のために存在しているのではなく、人間もまた神の被造物の一つに過ぎない。それを知ることこそ、人間の智恵ではないかとヨブ記は私たちに問いかける。私たちの苦難が何故あるのか、私たちは知らない。ただイエスはその私たちのために十字架を負って下さった。それを知れば苦難もまたイエスに従う道の中にある。
−?コリント4:8-10「私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。
*ヨブ記40章参考資料「ベヘモットとレビヤタン」
・ベヘモットは『旧約聖書』に登場する陸の怪物(怪獣)。語源は一説に「動物」と言う意味のヘブライ語「behamah」の複数形から。悪魔と見られることもある。 読みの違いから、「ベヒーモス」「ベヘモト」「ビヒーモス(ビヒモス)」「ベエマス」「バハムート」など、多様に表記される。『旧約聖書』(『ヨブ記』など)で、陸に住む巨大な怪物として記述されている。
・神が天地創造の5日目に造りだした存在で、同じく神に造られ海に住むレヴィアタン(リヴァイアサン)と二頭一対を成すとされている。レヴィアタンが最強の生物と記されるのに対し、ベヒモスは神の傑作と記され、完璧な獣とされる。『ヨブ記』によれば、ベヒモスは、杉のような尾と銅管や鉄の棒のような骨、そして巨大な腹を持った草食の獣で、日に千の山に生える草を食べるほどの食欲を持つとされる。しかし、性格は温厚なもので、全ての獣はベヒモスを慕ったという。一般的にはカバもしくはサイに似た獣の姿で描かれることが多い。
・レヴィアタンとは、海と陸以外にも雌と雄の一対の関係でとらえられることもある。また、本来はレヴィアタンと同様に海に住んでいたが、共に巨大すぎるために海が溢れ、片方が陸に住むようになったとも言われる。転じて水陸両生の獣と見られることもあり、川が氾濫しても平気だといわれる。イスラム教ではバハムートとして知られ、本来は同一の存在であったものの、独自の変化を遂げている。中世以降はサタンなどと同じ悪魔と見られるのが一般化した。悪魔としては、『旧約聖書』の内容から転じて、暴飲暴食を司り、ひいては貪欲を象徴する。悪魔としての姿は象頭人身として描かれることが多い。これはヒンドゥー教のガネーシャと類似している。
・レヴィアタンは旧約聖書に登場する海の怪物(怪獣)。悪魔と見られることもある。義から転じて、単に大きな怪物や生き物を意味する言葉でもある。旧約聖書(『ヨブ記』『詩篇』『イザヤ書』など)で、海中に住む巨大な怪物として記述されている。神が天地創造の5日目に造りだした存在で、同じく神に造られたベヒモスと二頭一対(ジズも含めれば三頭一対)を成すとされている(レヴィアタンが海、ベヒモスが陸、ジズが空を意味する)。ベヒモスが最高の生物と記されるに対し、レヴィアタンは最強の生物と記され、その硬い鱗と巨大さから、いかなる武器も通用しないとされる。
・『ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。口には鋭く巨大な歯が生えている。体には全体に強固な鎧をおもわせる鱗があり、この鱗であらゆる武器を跳ね返してしまう。その性質は凶暴そのもので冷酷無情。この海の怪物はぎらぎらと光る目で獲物を探しながら海面を泳いでいるらしい。本来はつがいで存在していたが、あまりにも危険なために繁殖せぬよう、雄は殺されてしまい雌だけしかいない。その代わり、残った雌は不死身にされている。また、ベヒモスを雄とし、対に当たるレヴィアタンを雌とする考えもある。その姿は、伝統的には巨大な魚(クジラ)やワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。『イザヤ書』に登場する海の怪物ラハブと同一視されることもあり、この場合、カナン伝説と同じ起源を持つ(七つの頭をもつ海の怪物リタン)。同時にバビロニア神話に登場するティアマトとの類似性が挙げられる。ここから後世、後述のレヴィアタンを悪魔とする見識も登場した。また、ユダヤ教の伝説では、アダムを女の姿で、イブを男の姿で誘惑した両性具有のドラゴンだと考えられていた。
・中世以降はサタンなどと同じ悪魔と見られるのが一般化した。基本的には、本来のものと同じく、海または水を司る者で外観も怪物とする。その一方で、一般的に想起されるような悪魔の外観を持つ場合もある。元のレヴィアタンが何物の攻撃も通さない様に、悪魔としてのレヴィアタンは、どんな悪魔祓いも通用しないとされている。大航海時代のヨーロッパの船乗りにとっては、レヴィアタンは船の周りをぐるぐる泳いで渦巻きをつくり、船を一飲みにしてしまうクジラのような巨大な海の怪物だった。桶を投じることでレヴィアタンを避けることが出来ると信じられた。近代以降は、もっぱら海または水中の怪物や、それを想起させるような物(例えば戦艦・潜水艦)の名称や代名詞的な存在として、小説やゲームなどの創作物に登場するようになる。現実の例としても、イギリス海軍の艦名に用いられている。特殊な例としては、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』のように、外国からの武力を、海からの力と見立てるような例もある(ホッブズの出身はイングランドであるため、必然的に外国勢力は海から来ることになる)。