1.ヨブの反論
・エリパズは、ヨブの受けた災いはヨブが罪を犯した故だとして、ヨブに悔い改めを求めた。それに対してヨブは反論する「私がどのような罪を犯したというのか。神が一方的に私を責め立てておられるではないか」と。
−ヨブ記6:1-4「私の苦悩を秤にかけ、私を滅ぼそうとするものを、すべて天秤に載せるなら、今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。私は言葉を失う。全能者の矢に射抜かれ、私の霊はその毒を吸う。神は私に対して脅迫の陣を敷かれた」。
・ヨブの最大の苦しみは財産を失ったことでも子どもを失くしたことでもない。また自ら重い病になったことでもない。信頼していた神があたかも敵のように彼を攻めておられることだ。生命科学者の柳沢桂子さんは原因不明の病に30年間苦しめられた。病の苦しみよりも、原因不明であることによる人々の無理解に苦しめられたという。
−柳沢桂子・癒されて生きる「私は30年に近い歳月を原因のよくわからない病気とともに生きてきた。初めに現れたのは,めまい,吐き気,腹痛などの症状であったが,次第に四肢の麻痺,嚥下困難なども伴って,起きることもできなくなってきた。そこまで病気が進行しても,検査値に異常があらわれないために,病気とは認められなかった。すべて主観的な症状ばかりであるために,私の気のせいであるとか,何か不満があるために出る症状とされた。現在の社会では,医師が病名をつけないということは,その他の人々も病気と認めないことを意味する・・・自分ではどうすることもできない激しい症状があり,職も失っていくなかで,社会的に病気とは認められないということは,言葉に表せない苦しみであった」。
・ヨブは死を願うがそれも与えられない。回復の望みが無い中で生き続けることこそ、苦難だとヨブは訴える。
−ヨブ記6:8-11「神よ、私の願いをかなえ、望みのとおりにしてください。神よ、どうか私を打ち砕き、御手を下し、滅ぼしてください。仮借ない苦痛の中でもだえても、なお、私の慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかったということです。私はなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか」。
・「回復の望みが無い時、なおも生きる苦しみ」をヨブは訴える。この問題を現代日本は延命治療の是非という形で経験する。朝日新聞調査と日本老年医学会の共同調査では、認知症高齢者に胃瘻を行った場合の平均生存日数847日、胃瘻を中止した場合は7日から10日で亡くなる。調査では、最近は家族の要請で胃瘻を中止する場合が増えているという。人の生命とは何なのか。
−ヨブ記6:12-13「私に岩のような力があるというのか。このからだが青銅のようだというのか。いや、私にはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった」。
2.友のあるべき姿
・ヨブは同時に友人たちの無情さを責める「絶望している者にこそ、友は誠実であるべきなのに、実際は見失った川床のようではないかと」。砂漠では雨季には雪解け水であふれる川が、乾季には水が無くなる。普段は友として親しく交わりながら、一番助けが必要な時にその助けが来ないのでは、その水無川と同じではないかヨブは嘆く。
−ヨブ記6:14-20「絶望している者にこそ友は忠実であるべきだ。さもないと全能者への畏敬を失わせることになる。私の兄弟は流れのように私を欺く。流れが去った後の川床のように・・・季節が変わればその流れも絶え、炎暑にあえば、どこかへ消えてしまう。そのために隊商は道に迷い、混沌に踏み込んで道を失う。テマの隊商はその流れを目当てにし、シェバの旅人はそれに望みをかけて来るが、確信していたのに、裏切られ、そこまで来て、うろたえる」。
・ヨブが友人に求めるのは慰めであって物質的な支援ではない。それなのにあたかも物質的な支援を恐れるかのように、冷淡だ。当時不幸は伝染するという考えがあったという。ヨブは友がその伝染を恐れているのではないかと疑う。
−ヨブ記6:21-23「今や、あなたたちもそのようになった。破滅を見て、恐れている。私が言ったことがあろうか『頼む、私のためにあなたたちの財産を割いて、苦しめる者の手から救い出し、暴虐な者の手から私を贖ってくれ』と」。
・人は他者の痛みを感じることは出来ず、苦しむ人の前で、平気で無関係の議論を行う。人は本当には他者に寄り添えない存在だ。人に関わるとはどういうことなのだろうか。
−ヨブ記6:24-27「間違っているなら分からせてくれ、教えてくれれば口を閉ざそう。率直な話のどこが困難なのか。あなたたちの議論は何のための議論なのか。言葉数が議論になると思うのか。絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか。あなたたちは孤児をすらくじで取り引きし、友をさえ売り物にするのか」。
・ヨブが求めている友の真摯な関わりだ。そこにはヨブの正しさが、彼の全存在がかかっている。
-ヨブ記 6:28-30「だが今は、どうか私に顔を向けてくれ。その顔に、偽りは言わない。考え直してくれ、不正があってはならない。考え直してくれ、私の正しさが懸っているのだ。私の舌に不正があろうか、私の口は滅ぼすものをわきまえていないだろうか」。
*ヨブ記6章参考資料:かかわるということ
塔和子「胸の泉に」
かかわらなければ、この愛しさを知るすべはなかった。
この親しさは湧かなかった。
この大らかな依存の安らいは得られなかった。
この甘い思いやさびしい思いも知らなかった。
人はかかわることからさまざまな思いを知る。
子は親とかかわり、親は子とかかわることによって、
恋も友情もかかわることから始まってかかわったが故に起こる。
幸や不幸を積み重ねて大きくなり、くり返すことで磨かれ、
そして人は人の間で思いを削り、思いをふくらませ、生を綴る。
ああ、何億の人がいようとも、かかわらなければ路傍の人、
私の胸の泉に枯れ葉いちまいも落としてはくれない。
*塔和子:香川県・国立療養所大島青松園に入所しておられるハンセン病患者、最近、クリスチャン音楽家・沢知恵が詩に曲をつけてCD化され、話題になった詩。