1.人を裁く信仰
・ヨブ記12-14章はゾパルの勧告に対するヨブの反論だ。この内、12-13章が一つのまとまりを示しているので、今回は両章を同時に読む。12章ではまず、ヨブは「友人たちが自分の神学に従ってヨブを断罪しようとする」、その冷たさを憤慨する。
-ヨブ記12:2-5「確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ。あなたたち同様、私にも心があり、あなたたちに劣ってはいない・・・神に呼びかけて、答えていただいたこともある者が、友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が物笑いの種になるのか。人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ」。
・しかし、ヨブは当時の人々が信じていた「因果応報の神(ヨブもまた信じていた)」に疑問を感じ始めている。因果応報では説明の出来ない不条理があることを、自己の苦難を通して見始めている。
-ヨブ記12:6「略奪者の天幕は栄え、神を怒らせる者、神さえ支配しようとする者は安泰だ」。
・今日でも多くの人々が因果応報の神を信じている。キリスト教会の中にも、「祈れば神の癒しはある。正しい者には物質的な祝福が与えられる」と教える教会は多い。こういう信仰に対して、ウィリモンは「それは聖書の信仰ではない」と言う(ウィリモン「教会を必要としない人への福音」)。
-「キリスト教が素晴らしい信仰であることを示す理由の一つは、苦痛がなくなるとか生活がすべて祝福される等の、安易な約束をしないからだ。人生は時には苦痛に満ちたものであり、物事は私たちが望む方向に進むとは限らない、という人生の現実に基づく希望を持つからだ」。
・三人の友人たちは神ではなく、自分たちの信じる神学(応報神学)をもとに、人を裁いている。今日の教会にも同じ傾向がある。カルヴァンの唱える予定論(人は救われる者と滅ぶ者があらかじめ定められている)もまた、カルヴァンの信仰であって聖書全体の信仰ではないことを知るべきだ(聖書の中にも選びの箇所は当然にあるが)。
-マタイ5:45b「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。
2.生ける神と出会いつつあるヨブ
・ヨブは「裁きの神」の背後に、「生ける神」を見いだし始めている。「生ける神」であれば、自分の申し立てを聞いてくれるかも知れないと思い始めている。
-ヨブ記13:3「私が話しかけたいのは全能者なのだ。私は神に向かって申し立てたい」。
・ヨブは神に向かって申し立てを始める。旧約においては、「神の顔を見た者は死ぬ」とされている。彼は超越者たる神に申し立てることがいかに不遜で、また危険であるかを知っているが、そうせざるを得ない。
-ヨブ記13:13-16「黙ってくれ、私に話させてくれ。どんなことがふりかかって来てもよい。たとえこの身を自分の歯にかけ、魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神は私を殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。私の道を神の前に申し立てよう。この私をこそ、神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら、御前に出るはずはないではないか」。
・ヨブ記13:15-16はヨブ記の中でも有名な箇所であるが、原典のヘブル語の訳し方如何で意味が大きく異なってくる。古典ヘブル語は母音記号がないため、読み方が統一しない。新改訳の読みが妥当ではないかと思える。
-新改訳ヨブ記13:15-16「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ」。
・17節以降がヨブの主張の中心だ。「私は無実だ。それなのに何故私を罰するのか」とヨブは言う。東京電力OL殺人事件の犯人とされたゴビンダ・マイナリ被告は1997年に逮捕され、一審では無罪となったが、控訴審・上告審では有罪(無期懲役)とされ、服役していた。彼は繰り返し再審請求するが拒否され、2011年検察側が被告に有利な証拠(遺体から採取された精液)を隠していたことが判明し、DNA鑑定の結果冤罪とわかり、2012年に釈放された。15年間獄中にいた彼の無念の叫びは、ヨブの叫びと同じだ。
-ヨブ13:17-19「よく聞いてくれ、私の言葉を。私の言い分に耳を傾けてくれ。見よ、私は訴えを述べる。私は知っている、私が正しいのだ。私のために争ってくれる者があれば、もはや、私は黙って死んでもよい」。
・ヨブ記は20節から強気のヨブではなく、神の憐れみを求める弱いヨブの姿を描き出す。目の前にあるこの病気の痛みを取り除いてほしい、何故私を執拗に裁かれるのか、その理由を知りたいとヨブは懇願する。不条理に苦しむ多くの人がこのような祈りを神に捧げてきた。
-ヨブ記13:20-28「ただ、やめていただきたいことが二つあります。御前から逃げ隠れはいたしませんから。私の上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください・・・私に語らせてください、返事をしてください。罪と悪がどれほど私にあるのでしょうか。私の罪咎を示してください。なぜ、あなたは御顔を隠し、私を敵と見なされるのですか。風に舞う木の葉のような私をなお震えさせ、乾いたもみ殻のような私を追いまわされる。私に対して・・・若い日の罪をも今なお負わせられる。私に足枷をはめ、行く道を見張り続け、一歩一歩の跡を刻みつけておかれる。このようにされれば、だれでもしみに食われた衣のようになり、朽ち果てるほかはありません」。
*ヨブ記12-13章参考資料:ウィリアム・H. ウィリモン「教会を必要としない人への福音、第4章から」
1) 著者は第一コリントのパウロの言葉を手掛かりに教会のあり方を述べる。いつまでも未熟な信仰者であるなと。
-?コリント13:11「幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」。
2)今でも多くの教会が幼子のように教会員を扱っているのではないかというのが、著者の批判点である。
多くの教会では牧師が「教会の父親」、教会員はその「子供」とされている。カトリックでは聖職者は「ファーザー」と呼ばれ、原理主義的教会では「何を為すべきか、何を考えるべきかを、牧師が父親のように教える」という形が好まれている。しかしパウロが言う「成熟した信仰」とはそうではない。信仰とは「自立する」ことであり、牧師の役割は「教会員を神へと導く(牧師へと導くのではなく)」ことだ。
3)この信仰の未成熟の例として、著者が最初にあげるのが、ファンダメンタリズムである。
ファンダメンタリストは聖書逐語霊感主義に立ち、聖書の一字一句を文字どおりに信じる。彼らはまた指導者の言葉をも無条件に信じることを求められ、あらゆることを二元論的に考えるよう教えられている(白と黒、正義と悪)。聖書や指導者を疑う者は追放される。彼らは信仰を単純化し(例:キャンパス・クルセード・四つの法則)、それを信じるように求める。彼らは信仰の多様性を認めようとしない。
4)第二の未成熟の例として著者はメシアニズム的信仰を挙げる。
ある人物を現代のメシアと同一化しようとする。文鮮明による統一教会等が顕著な例だ。統一教会は韓国の儒教、ピューリタニズム、反共産主義をポスト・キリスト教として提示する。彼らは共同体の親密な生活、厳格な道徳指導、献身と自己犠牲を示して、帰属意識を持てない若者を勧誘し、熱狂させる。しかしそこには信仰の自由はなく、ただ文鮮明に縛られた生活があるだけだ。子供じみた信仰の在り方である。
5)第三の未熟例が実利主義からのアプローチだ。
著者はオーラル・ロバーツ(テレビ伝道者)をその例として挙げる。彼は肉体や心の癒し、経済的な問題の解決を強調し、彼の「種の信仰の奇跡」はミリンセラーになった。彼は「キリストの奇跡」という著書の中で言う「奇跡を期待している人にのみ神は奇跡を与え、その奇跡は少額になった銀行預金通帳から歯痛に至るまであらゆるものを癒す」。それは自己中心的で利己主義的なキリストの弟子たちのためのキリスト教だ。
6)パウロが示唆するのは上記のような幼子のような信仰の在り方ではなく、成熟した大人の信仰だ。
成熟した信仰には自由がある。パウロがダマスコ途上で与えられたのは規則と戒律からの自由であり、イスラエルの民を導いたのも奴隷から自由の身にするためであった。規則に従う信仰とは幼子の信仰なのだ。第二はリスクに対する挑戦だ。神がアブラハムを導かれたのも未知の土地へであり、イエスがパリサイ派を批判されたのも、彼らの死んだ信仰(リスクを冒さない信仰)の故であった。キリスト教が素晴らしい信仰であることを示す理由の一つは、苦痛がなくなるとか生活がすべて祝福される等の安易な約束をしないからだ。人生は時には苦痛に満ちたものであり、物事は私たちが望む方向に進むとは限らないという人生の現実に基づく希望を持つからだ。