1.姦淫の妻の買戻しとイスラエルの買戻し
・ホセアはゴメルを妻として娶ったが、彼女は他の男と姦淫を繰り返し、次々に子を産んでいく。ホセアは自分の子でない子を与えられ、苦しみ、その子たちの名前をエズレエル(流された血)、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、ロ・アンミ(わが民でない者)と名づけ、自己の経験を通して、愛する民に裏切られる神の苦しみを知る。しかしやがて妻ゴメルは出奔し、他の男のところに行く。
−ホセア2:4-7「告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはや私の妻ではなく、私は彼女の夫ではない・・・私はその子らを憐れまない。淫行による子らだから。その母は淫行にふけり、彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。彼女は言う『愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ』」。
・それから長い時が経過した。ホセアは妻ゴメルが男たちに捨てられ、今では奴隷として呻吟しているのを知る。主はそのホセアに、「行って妻を買い戻せ」と命じられる。それは主が自分も裏切ったイスラエルを赦されるように、あなたも裏切った妻を赦せとの命令だった。
−ホセア3:1「主は再び、私に言われた『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように』」。
・当時、奴隷の買取り価格は銀30シケルだった。ホセアは銀15シケルと穀物で妻ゴメルを買い取った。その時、ゴメルは40代から50代になっていたであろう。ホセアは妻を買い戻し、彼女と住んだ。
−ホセア3:2-3「私は銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。私は彼女に言った『お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間私のもとで過ごせ。私もまた、お前のもとにとどまる』」。
・4節からホセアの行為が神のイスラエルに対する贖い(買戻し)の象徴行為であることが説明される。背信のイスラエルはその罪のために自分の国から離され、異邦に連れ行かれ、自由な礼拝もできなくなる。ゴメルが奴隷にさせられたように、イスラエルも国と神殿を失い、捕囚の民になるとの預言である。歴史的には、イスラエルは前721年アッシリアに征服され、民はアッシリアに強制移住させられた(アッシリア捕囚)。
−ホセア3:4「イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす」。
・しかしイスラエルが悔い改め、主を求めた時、彼らは赦され、再び戻される。ゴメルが夫から買戻されたようにイスラエルも主から買戻されると預言される。
−ホセア3:5「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」。
2.バルトの説教を通してホセア3章の意味を考える
・ホセア3章は神による買戻し、贖いを私たちに語る。これは私たちの物語だ。カール・バルトは1963年「君たち、担いなさい」という説教をした。聖書箇所はガラテヤ6:2(君たち、各々は他者の重荷を担いなさい。それによって君たちはキリストの律法を満たすであろう)である。ホセアが妻の買戻しを通して神の贖いを知ったように、私たちも他者の重荷を負うことによって、イエスが私たちの重荷を担って十字架にかかられた意味を知るというメッセージである。
・バルトは言う「ここでは律法について語られている。律法とは良い響きを持ちにくい言葉だ。しかし、ここで語られているのは特別な律法、キリストの律法である。その律法はマタイ11:29-30(私の軛を負いたまえ・・・そうすれば、君たちは、君たちの魂のために安息を見出すであろう。私の軛は柔らかく、私の荷は軽いのだから)に明示されている律法だ。君たちは神によって、この大いなる重荷の担い手によって、解放されている者として、生きることがゆるされているのであり、そして事実生きるように言われている。だからこそ『私の律法を守りたまえ』という呼びかけに、『そうすれば君たちは、君たちの魂のために安息を見出すであろう』という約束が続く。
・「私たちはこの方が担って下さったし、担っておられる、その重荷の、最も小さき一部分における『若干の暗い陰を担う』ことが、求められ、指示されている。私たちが担いうる、担うべき重荷とは何か、それは『陰』であり、『残滓』である。キリストは罪の重荷を十字架へと担ってくださったが、それでも繰り返し生じる罪の残滓である。『各々は他者の重荷を担いなさい』、他者、君の仲間、君の隣人、様々な逆戻りや残滓を抱えているこの他者こそが君の重荷なのだ。この他者は君を苦しめ、困らせる。君はこの他者を無視し、避け、軽んじることもできるが、そうしても何も変えることはできない。君はこの他者と対決し、非難し、自分の考えを主張することもできるが、それでは何も解決しない。むしろ、他者との対決を通して、君は『キリストによって既に起こった解放にもかかわらず、自由になっていない人間の見本になる』のだ。それに対して聖句は言う『君たち、担いなさい。一方の者が他者の重荷を』。
・「何故そうしなければいけないのか、それは一方の者は他者と同じ船に乗っており、彼らは連帯的にお互いに強く結び付けられ、また互いに対して責任があることが前提にされているからだ。他者も君も同じく、『逆戻りの者ら』であり、それゆえ『重荷の担い手』なのだ。両者ともお互いに対して『重荷になっている』存在なのである。だから『両者ともただ一緒にだけ助けられる』その存在なのだ。だから『君たち、担いなさい』と命令されている。担うとは重荷を取り除くことではない。そんなことはできない。担うとは、今受けている煩わしさを相互に容赦するという許しと可能性を用いることを意味する。ちょっぴり優しく互いに接することだ。担うとは、人が一緒に歩む道連れとして、互いの重荷を受け入れ引き受けること、そうすることによってお互いに対して差し出す援助の事だ。担うとは『私が自分自身の目にある梁を見出して、これを兄弟の目にある塵よりも大きなものとして認め、だから咎を、そしてまた容赦してもらう必要を、自分自身の内に見出す心備えが自分にある』ということだ」。
・「重荷を担い合う、そうすることによって君たちは、あの重荷の担い手たる方の行為に続くのだ。重荷を担い合うことを通して君たちは、あの方の仲間として、あの方との交わりにおいて、あの方の随従において、生き、そして行動するのだ。それがどんなに小さいものであろうと、その時、確かに、『きみ自身のように君の隣人を愛しなさい』というあの戒め(マルコ12:31)への参与になるのだ」。
・彼は説教後に祈る「いかに私たちが、いつも自分の正しさを主張し、まさにそうすることによって、絶えず繰り返し不正をなし、不幸を引き起こしていることか。あなたが私たちにあの別な道、あのより善き道を示して下さったのみならず、その道を開いて下さったことを感謝します。どうか、その道に足を踏み入れて歩む勇気を、かくしてあなたの愛する御子の献身において私たちに贈り与えられている自由を用いる勇気を、私たちにお与え下さい」。