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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年12月13日祈祷会(ヨブ記31章、ヨブの最終弁論、潔白の誓い)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.無実の誓い

・ヨブ記31章は「潔白の誓い」というヘブライ法の形式に沿って,ヨブが自分の無実を主張する箇所である。「潔白の誓い」は被告人が証人を得るのが困難な場合に適用され,被告人は無実を主張することが出来るが,もしそれが虚言であれば厳しい罰を受けても良いという誓約の下に置かれる制度である。最初にヨブが主張するのは、自分は支配下にある女奴隷にさえ、好色の目を向けなかったという誓いである。
−ヨブ記31:1-4「私は自分の目と契約を結んでいるのに、どうしておとめに目を注いだりしようか。上から神がくださる分は何か、高きにいます全能者のお与えになるものは何か。不正を行う者には災いを、悪を行う者には外敵をお与えになるではないか。神は私の道を見張り、私の歩みをすべて数えておられるではないか」。
・次にヨブは「自分は虚偽や偽りで人を欺いたことはない」と誓う。「もし自分のいうことが違うなら、厳しい罰を受けても良い」と彼は誓約する。典型的な「潔白の誓い」の形を取る。
−ヨブ記31:5-8「私がむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら、正義を秤として量ってもらいたい・・・私の歩みが道を外れ、目の向くままに心が動いたことは、決してない・・・もしあるというなら、私の蒔いたものを他人が食べてもよい。私の子孫は根絶やしにされてもよい」。
・更にヨブは、自分は姦淫の罪を犯したことはない。もしあるならば妻が辱められても良いと彼は言う。
−ヨブ記31:9-10「私が隣人の妻に心奪われたり、門で待ち伏せたりしたことは、決してない。もしあるというなら、私の妻が他人のために粉をひき、よその男に犯されてもよい」。
・ヨブは潔白の誓いを続ける「奴隷たちを虐げたことはない。貧者ややもめ、孤児に不親切にしたことはない」と。
−ヨブ記31:13-17「私が奴隷たちの言い分を聞かず、はしための権利を拒んだことは、決してない。もしあるというなら、神が裁きに立たれるとき、私が何をなしえよう。神が調べられるとき何と答えられよう・・・私が貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、孤児を飢えさせたことは、決してない」。

2.神のごとくになるヨブの罪

・ヨブは19節以下で、自分がいかに「神の憐れみ(ヘセド)の戒め」を守ってきたかを誇る(31:19-23)。
−31:19-21「着る物もなく弱り果てている人や、からだを覆う物もない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。彼らは常に私の羊の毛でからだを暖めて、感謝したのだ。私が裁きの座で味方の多いのをいいことにして、孤児に手を振り上げたことは、決してない」。
・またヨブは金銀を神としたことも、日や月を拝んだこともないと宣言する。神以外のものは拝んだことがないと。
−ヨブ記31:24-28「私が黄金を頼みとし、純金があれば安心だと思い、財宝の多いことを喜び、自分の力を強大だと思ったことは、決してない。太陽の輝き、満ち欠ける月を仰いで、ひそかに心を迷わせ、口づけを投げたことは、決してない。もしあるというなら、これもまた、裁かれるべき罪である。天にいます神を否んだことになるのだから」。
・ヨブはまた自分は「敵の不幸を喜んだ」ことはないし,「人を呪った」こともないと誓約する。もしあるなら罰を受けてもかまわないと彼は言う。ここにも潔白の誓いがある。
−ヨブ記31:29-34「私を憎む者の不幸を喜び、彼が災いに遭うのを見て、私がはやしたてたことは、決してない。呪いをかけて人の命を求めることによって、自分の口が罪を犯すのを許したことは決してない・・・もしあるというなら、群衆の前に震え、一族の侮りにおののき、黙して門の内にこもっていただろう」。
・最後にヨブは宣言する「私は無実であり、潔白である。このような罰を受けるような罪を犯したことはない。神よ、私は潔白の誓約をここにします。今度はあなたが答える番です」と。
−ヨブ記31:35-37「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を私はしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」。
・ヨブの苦悩の原因は応報思想の破綻だ。旧約は「善行には祝福を,罪には災いを」という応報思想が支配的だ(申命記28:1−2,28:15他)。だからヨブは自分の正しさを主張することによって,自分に与えられた苦難が不当であることを主張する。しかし、現実世界は応報思想の破綻を示唆する。ヨブもそのことに気づき始めている。
−ヨブ記9:20-22「私が正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。無垢かどうかすら、もう私は知らない。生きていたくない。だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と」。
・「神と対決する」と息巻くヨブに神が声を掛けられ(38章以下)、ヨブは苦難の理由が明らかにされないままに満足する(42章)。ヨブが求めたのは、結局は神の臨在の確認、「インマヌエル」だったのではないか。人間は「神が共におられる」ことさえわかれば,不条理や苦難に耐えて待つことが出来るのではないだろうか。
−ヨブ記38:1-3「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ」。
−ヨブ記42:1-6「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは」。そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。

*ヨブ記31章参考資料:「You raise me up」
(原文)
When I am down and, oh my soul, so weary; When troubles come and my heart burdened be;
Then I am still and wait here in the silence, Until you come and sit awhile with me.
You raise me up, so I can stand on mountains; You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders; You raise me up... to more than I can be.
(和訳)
「心が沈み弱って、重荷に悩む時、静かに祈ります、主よ、ともにいてくださいと。主が起こしてくださるから、私たちは強められ、山に上ることが出来ます。主が起こしてくださるから、私たちは強められ、嵐の海の中を歩くことも出来ます。主の手が支えてくれるので、わたしは強くなれます。主の手に支えられて、わたしは強くなれます。主よ、ともにいてください」。

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