詩編119編は176節まである長い詩編であり、4回に分けて学ぶ。今日は3回目、カフ(81節〜)からサメク(〜120節)までを学ぶ。
1.カフ(81〜88節)
・詩人は迫害と苦難の中にある。詩人の「魂は絶入りそう」であり、詩人の「目は衰えた」。詩人は「煙に煤けた革袋」のようになった。その中で詩人は「いつまでこの苦しみは続くのですか」と訴える。
−詩編119:81-85「私の魂はあなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。私の目はあなたの仰せを待って衰えました。力づけてくださるのはいつか、と申します。私は煙にすすけた革袋のようになってもあなたの掟を決して忘れません。あなたの僕が長らえる日々はどれほどでしょう。私を迫害するものに対していつあなたは裁きをしてくださるのでしょう。傲慢な者は私に対して落とし穴を掘りました。彼らはあなたの律法に従わない者です」。
・苦難を耐えがたくするのは「神の沈黙」だ。「主よ、いつまでですか」という問いは永遠の問いだ。何よりも、信仰を持ったゆえに苦しみが与えられる時が厳しい。日本のキリシタン迫害もそうであるし、この詩の背景にあると思われるシリア統治下のギリシア神信仰の強制時代も、またローマ帝国の迫害下にあった原始教会時代もそうだ。「神の国は来たが、まだ完成していない」。私たちは希望と現実の過酷さの中で揺れ動く。その中で詩人は主を求め続ける。
−詩編119:86-88「あなたの戒めはすべて確かです。人々は偽人を持って私を迫害します。私をお助けください。この地で人々は私を絶え果てさせようとしています。どうか私があなたの命令を捨て去ることがありませんように。慈しみ深く、私に命を得させてください。私はあなたの口から出た定めを守ります」。
・イエスは言われた「貧しい人は幸いだ。なぜなら神以外に頼るものがないから神を求める」。苦難は人を神に導くが「人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである」という言葉は受容が難しい言葉だ。
−ルカ6:20-22「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」。
2.ラメド(89節〜96節)
・詩人は苦難の中であえいでいる。そして、「世の悲しみは死をもたらす」(?コリント7:10)。苦難により押しつぶされる人もいる。しかし、詩人は「神が共に居ます」ことを信じる故に、その苦しみを乗り越えることが出来た。
−詩編119:89-93「主よ、とこしえに御言葉は天に確立しています。あなたへの信仰は代々に続き、あなたが固く立てられた地は堪えます。この日に至るまで、あなたの裁きにつき従って来た人々はすべてあなたの僕です。あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみに私は滅びていたことでしょう。私はあなたの命令をとこしえに忘れません、それによって命を得させてくださったのですから」。
・「神に逆らう者」は詩人を苦しめている。神に逆らう、律法を禁止したギリシア人支配者とその追随者たちであろう。ギリシア人は「すべての人間は可能性を持ち、その可能性を最大限に引き出すことによって、完全な世界、理想的な人間を創り出せる」と考えた。その考えが教育(educate=e外に、ducere導く)に対する信仰だ。しかし詩人は人間には限界があり、その限界を超えるためには神により頼むしかないと考えるゆえに疎外されている。
-詩編119:94-96「私はあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令を私は尋ね求めます。神に逆らう者は私を滅ぼそうと望んでいます。私はあなたの定めに英知を得ます。何事にも終りと果てがあるのを私は見ます。広大なのはあなたの戒めです」。
・「神などいない、いるのであれば証拠を見せてみよ」と多くの者はうそぶく。その中で私たちは「神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い」ことを証ししていく。
-?コリント1:22-25「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。
3.メム(97節〜104節)
・ギリシア人の律法(ノモス)は法であり、人々は遵法を強制され、違反者は処罰される。聖書の律法(トーラー)は人の生き方を示すものであって、神と人を愛することによって、人は人となることを示す。トーラーは人を生かし、ノモスは人を殺す。
-?コリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。
・だから詩人は「私はあなたの律法を愛します」と告白する。
-詩編119:97-99「私はあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。私は絶え間なくそれに心を砕いています。あなたの戒めは私を敵よりも知恵ある者とします。それはとこしえに私のものです。私はあらゆる師にまさって目覚めた者です。あなたの定めに心を砕いているからです」。
・神の言葉(律法)は蜜のように甘い。何故ならば、そこには愛があるからだ。
-詩編119:100-104「長老たちにまさる英知を得させてください。私はあなたの命令を守ります。どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください。あなたの裁きから離れません。あなたが私を教えてくださるからです。あなたの仰せを味わえば私の口に蜜よりも甘いことでしょう。あなたの命令から英知を得た私はどのような偽りの道をも憎みます」。
・律法は愛の戒めだ。戒めが実践された時、そこに愛が生まれる。愛はノモスからは生まれない。神への感謝が人を隣人への愛に導く。トーラーの基本は、神の「ヘセドとエメス」(慈しみと真実)への応答なのだ。
-申命記24:19-22「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。私はそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである」。
4.ヌン(105節〜112節)
・詩編119:105「あなたの御言葉はわが足の灯火」は多くの人に愛唱されてきた(新生讃美歌131番他)。詩人はここで律法(御言葉)を、足を照らす明かりに例え、御言葉を通して人は正しい道に導かれていくと賛美する。
-詩編119:105-106「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯。私は誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります」。
・私たちは「神の国を目指して歩む旅人」であり、「御言葉こそ私の嗣業」なのだと詩人は言う。
-詩編119:108-112「主よ、御言葉のとおり命を得させてください。私の口が進んでささげる祈りを、主よ、どうか受け入れ、あなたの裁きを教えてください。私の魂は常に私の手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。主に逆らう者が私に罠を仕掛けています。それでも、私はあなたの命令からそれません。あなたの定めはとこしえに私の嗣業です。それは私の心の喜びです。あなたの掟を行うことに心を傾け、私はとこしえに従って行きます」。
5.サメク(113節〜120節)
・多くの人は言う「神などいない、死後の生などない、人生の意味は楽しむことにある」。しかし私たちは楽しみの後の空虚さを知っている。そして「人は神と富に仕える事はできない」(マタイ6:24)ことも知る。だから主の御言葉に頼り、それを隠れ家とする。
-詩編119:113-117「心の分かれている者を私は憎みます。あなたの律法を愛します。あなたは私の隠れが、私の盾、御言葉を私は待ち望みます。悪事を謀る者よ、私を離れよ。私は私の神の戒めを守る。あなたの仰せによりすがらせ、命を得させてください。私の望みを裏切らないでください。私を支えてください、そうすれば私は救われます。いつもあなたの掟に目を注ぎます」。
・真の喜びは命の基である主から来る。だから私は神の御言葉に従って行くと詩人は述べる。
-詩編119:118-120「あなたの掟から迷い出る者はことごとく打ち捨てられました。彼らは欺く者、偽る者です。この地であなたに逆らう者はことごとく金滓のように断ち滅ぼされました。それゆえ私はあなたの定めを愛します。あなたを恐れて私の身はすくみます。あなたの裁きを畏れ敬います」。