1.エジプトを出よ
・詩編114編は113編から始まるハレルヤ詩編の一つであり、過ぎ越しの祭に歌われた賛歌である。詩人は捕囚地バビロンから救いだされた喜びを、過去のエジプトからの救済の出来事を想起しながら歌っている。最初に出エジプトの意味が歌われる。イスラエルは神の聖なる民となるために異郷エジプトから救い出されたのだと。
−詩編114:1-2「イスラエルはエジプトを、ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り、ユダは神の聖なるもの、イスラエルは神が治められるものとなった」。
・3−4節に出エジプトの不思議な神の業、葦の海の奇跡とヨルダン川の奇跡が描かれる。主は葦の海に追い詰められたイスラエルを海を開いて救われ、またヨルダン川を開いて約束の地への道を示された。
−詩編114:3-4「海は見て、逃げ去った。ヨルダンの流れは退いた。山々は雄羊のように、丘は群れの羊のように踊った」。
・「山々や丘が踊る」とは、シナイ山で雷鳴を通して律法が与えられたことを指すのであろう(出エジプト記19:18-19)。古代人は雷鳴と火山の振動の中に、神の息吹を見た。ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のジュピターはいずれも雷神である。詩人は自然現象を人格化して言う「海よ、なぜ逃げ去ったのか」、「川よ、なぜ退いたのか」と。海や川は神話的怪物の住む所、その混沌の中から神は天地を造られたとイスラエルの人々は信じていた。
−詩編114:5-6「どうしたのか、海よ、逃げ去るとは、ヨルダンの流れよ、退くとは。山々よ、雄羊のように、丘よ、群れの羊のように踊るとは」。
・岩を叩くとそこから水が出て、荒野のイスラエルは養われた。メリバの泉の奇跡(出エジプト記17:1-7)である。
−詩編114:7-8「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に、ヤコブの神の御前に。岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に」。
2.私たちの出エジプト
・エジプトからの解放の出来事こそイスラエル民族の誕生の原点であった。イスラエル人は出エジプトを通して、先祖の神ヤハウェこそ天地を支配される神であることを知った(申命記26:5-9は最初の信仰告白として知られている)。
−申命記26:5-9「私の先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました」。
・出エジプトの出来事をイスラエルは常に想起した。捕囚地バビロンからの解放を歌った第二イザヤも出エジプトを導かれた神が、私たちをバビロンから解放されると預言する。
−イザヤ43:16-20「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方・・・見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている・・・私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私をあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、私の選んだ民に水を飲ませるからだ」。
・新約記者も出エジプトの出来事をイエスの出来事と重ねあわせて叙述する。マタイはイエスがヘロデの手を逃れてエジプトに行き、そこから帰国したことを新しい出エジプトと捉え(マタイ2:15「私はエジプトから私の子を呼び戻した」)、 ルカはイエスの十字架をエクソダス(出エジプト)と呼んでいる。
−ルカ9:30-31「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(エクソダス)について話していた」。
・出エジプトにおいてイスラエルは海沿いの道ではなく、荒野の道に導かれた。それは困難な道であったが、荒野でなければマナの奇跡もメリバの泉の出来事も経験しなかっただろう。
−申命記8:2-3「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。
・イスラエルは国を滅ぼされてバビロンに捕囚になった。そのことを通して彼らはノアの洪水やバベルの塔の物語に触れ、創世記の創造物語を書いた。苦難を通して知る神の摂理がある。そこに苦難の意味があるのであろう。
−ヨハネ9:2-3「弟子たちがイエスに尋ねた『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。