1.エジプトへの第五の審判預言
・エジプトはバビロニアと並ぶ二大帝国であり、イスラエルの同盟国であった。しかし、バビロニアがパレスチナに侵攻した時、イスラエルを助けず、その滅亡を放置した。その罪の故に、主はエジプトを裁かれるとエゼキエルは長い審判預言を行う(29章〜32章)。預言は7つに別れ、それぞれ年代が異なる。31章の第五の審判預言は捕囚第11年3月1日(西暦:紀元前587年6月21日)、エルサレムが陥落し、滅びる数週間前のものだ。預言はエジプト王とその民を対象とするが、直接聞いているのは捕囚の民である。エジプトはレバノンの香柏に例えられる。
−エゼキエル31:2-3「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。お前の偉大さは誰と比べられよう。見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり、丈は高く、梢は雲間にとどいた」。
・エジプトはレバノンの香柏のように巨大な木となった。それはナイル川という豊かな水が与えられた故であった。神の国の杉(ユダ王国)の繁栄もエジプトには及ばず、イスラエルの民はエジプトの繁栄をうらやんだ。
−エゼキエル31:4-9「水がそれを育て、淵がそれを大きくした。淵から流れる川は杉の周りを潤し、水路は野のすべての木に水を送った。その丈は野のすべての木より高くなり、豊かに注ぐ水のゆえに、大枝は茂り、若枝は伸びた。大枝には空のすべての鳥が巣を作り、若枝の下では野のすべての獣が子を産み、多くの国民が皆、その木陰に住んだ・・・神の園の杉もこれに及ばず、樅の木も、その大枝に比べえず、すずかけの木もその若枝と競いえず、神の園のどの木も美しさを比べえなかった。私が、多くの枝で美しく飾ったので、神の園エデンのすべての木もうらやんだ」。
・それは主がエジプトを恵まれたからであるのに、エジプトは自分の力で巨木になったと驕り、周囲の木々(国々)を見下した。それ故主は、この巨木を凶暴な異邦人(バビロニア)に渡し、切り倒されるとエゼキエルは預言する。
−エゼキエル31:10-12「それゆえ、主なる神はこう言われる。彼の丈は高くされ、その梢を雲の間に伸ばしたので、心は驕り高ぶった。私は彼を諸国の民の最も強い者の手に渡す。その者は彼を悪行に応じて扱う。私は彼を追放する。諸国の最も凶暴な民である異国人が彼を切り倒し、山々の上に捨てる。その枝はすべての谷間に落ち、若枝は切られて地のすべての谷を埋める。地上のすべての民は、その木陰から逃げ去り、彼を捨てる」。
・切り倒された木は陰府に下り、豊かな水も干上がり、エジプトは滅びる。その時、エジプトを羨んだエデンの木々(イスラエル)も共に滅びるだろうとエゼキエルは預言を続ける。
−エゼキエル31:14-18「彼らはすべて死に渡され、穴に下る人の子らと共に地の深き所へ行く・・・彼が陰府に下る日に、私は彼のゆえに淵を喪に服させ、彼を覆う。私が川をせき止めるので、豊かな水も干上がる。またレバノンに彼の弔いをさせるので、野のすべての木も、彼のゆえにしおれる。穴に下る者と共に彼を陰府に下すとき、私は彼の倒れる音で諸国民を揺り動かす・・・お前はエデンの木々と共に地の深き所に落とされ、割礼のない者の間で、剣によって倒された者と共に住むであろう。これがファラオとそのすべての軍勢の運命である」。
2.エジプトは滅び、イスラエルは滅びなかった
・高慢は人をも国をも堕落させる。文明が発祥し、2500年もの間栄華を誇ったエジプトも、その高慢さ故に裁かれていく。高慢なものは神により滅ぼされていく。それが、聖書が繰り返し述べる歴史の真理だ。ルカで語られるマリアの祈りはサムエル記2:1-10にあるハンナの祈りの継承だ。歴史は主の手の中にあるという信仰は新旧約を一貫する。
−ルカ1:51-54「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。
・世界帝国となったアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、全ての強大国は滅んできた。同時にアモリ人、モアブ人、ペリシテ人、アラム人等の弱小民族も滅んできた。その中で、イスラエルだけが滅びず、今日まで生き残ってきた。何故なのだろう、ある人はそこに神の不思議な業を見る。
−プロイセンのフリードリヒ大王は啓蒙主義者で神を信じなかった。ある時、彼は侍医のツインマーマンに尋ねた「お前にできるなら神が存在することを証明せよ」。侍医は答えた「陛下、それはユダヤ人です」。
・何故ユダヤ人だけが何千年の歴史を生き残ってきたのか。彼らの歴史は迫害と弾圧の歴史であった。バビロニアに国を滅ぼされ、ペルシャの支配を受け、ギリシャ支配(シリヤ)時代は虐待され、ローマ時代にはパレスチナから追放され、諸国に離散した。中世時代はキリスト教徒に迫害され、近世では寄留先の居住国から追われ、二次大戦中は民族虐殺の憂き目(ホロコースト)にあった。そのイスラエルだけが民族として残され、他の民族は全て滅亡した。イスラエルの強さは自分の弱さを知り、主に祈り続けたからではないだろうか。苦難こそイスラエルを神の民にしたのだ。
−詩編37:11「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう」。
―マタイ5:5「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(ギリシャ語訳旧約聖書・詩編37:11)。
*エゼキエル31章参考資料:柔和な人々は、幸いである。何故エジプトは滅び、イスラエルは残ったのか
〜「滅ぼされたユダヤの民の歌」 (イツハク・カツェネルソン著)、みすず書房から
・著者イツハク・カツェネルソンはポーランドのユダヤ系詩人。ヘブライ語とイディッシュ語で、多くの詩や戯曲を書いた。『滅ぼされたユダヤの民の歌』はイディッシュ語による彼の最後の大作。彼は1944年5月にアウシュヴィッツで殺された。
・ポーランドの人口のうち300万人以上を占め、ポーランドの様々な都市のシュテットル(ユダヤ人街)に集中しているユダヤ人を、ナチスは1940年頃よりゲットーを作り一箇所に集め始めていた。このうち最も大きなものがワルシャワ・ゲットーで38万の人間を抱えていた。武装蜂起が発生する1942年9月12日直前の52日間で、約30万のゲットーの住民がトレブリンカ収容所に送られ殺害された。ユダヤ人の「追放」が始まった当初、ユダヤ人の抵抗組織のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、労働キャンプに送られるだけだと信じていたからであった。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した。
・1943年1月18日、ドイツが2回目のユダヤ人「追放」を開始し始めた際に、最初の武装反乱が発生した。反乱組織がゲットーの支配を握った。彼らは、何十もの抵抗拠点を作り、ユダヤ人治安部隊とゲシュタポの工作員を含むナチ協力者と思われるユダヤ人を殺害した。ゲットーでの反乱に対しドイツ軍は、部隊を投入し鎮圧を試みた。そのため、次の3か月間、ゲットーの全ての住民は可能な限りの準備を行い、最後の戦いに臨んだ。最後の戦闘は4月19日の過越祭の夕方に始まった。ドイツ軍は大挙してゲットーに突入した。ユダヤ反乱軍は、裏通り、下水道、家の窓、燃えている建物からでさえ射撃を行い、ナチスの部隊に火炎瓶と手榴弾を投げつけた。攻撃がやんだ後、ナチスは、ブロックごと建物を焼きつくし、地下や下水道を吹き飛ばし、捕らえたユダヤ人を検挙もしくは殺害していった。戦いを通して、7千人のユダヤ人が戦死し、6千人が防空壕の中で焼死した。残った5万人は絶滅収容所に送られた。
・1943年のワルシャワ・ゲットー蜂起のさなか、人々はこの詩の著者イツハク・カツェネルソンをゲットーから連れ出した。民族の破滅という恐るべき真実を、このイディッシュ語詩人が後世に伝えてほしいと願ってである。その後彼は、フランスのヴィッテル特別収容所に入れられた。そこで「滅ぼされたユダヤの民の歌」を書き上げた著者は、1944年3月、詩稿を三本の瓶に入れて地中に隠し、さらに旅行用トランクの革の把手に、その作品の小さな精妙な写しを縫い込んだ。東方に移送された詩人は、荷役ホームに到着したその日に殺害された。5月1日、アウシュヴィッツでのことである。二人の女性がこの草稿を救い出した。一人はドイツ軍が引き上げてから三本の瓶を掘り出し、パリのイディッシュ語を扱う印刷屋に手渡した。もう一人は、あらゆる危難を乗り越えて、トランクの原稿と遺言をイスラエルにいる詩人の血縁と友人にもたらした。この二つの版は現在、イスラエルのワルシャワ・ゲットー戦士キブツにある。
・この叙事詩は15の歌から成り、各歌が四行詩15連、全体で900行の詩である。「アウシュヴィッツ以後」に書かれた作品ではなく、まさにアウシュヴィッツ時代の真実をイディッシュ語で歌い上げた決定的な「ホロコースト」証言である。「滅ぼされたユダヤの民の歌」において、武装抵抗を主題化した「第14 の歌」においてこう書かれている。
「ああ、我々にも! 我々にもできるのだ、そう、抵抗しお前たちを殺すことが、我々にも!我々にも!
しかし我々には、お前たちがこの世で決してできず、そして今後も決してできないであろうこともできる。
それは、隣人を殺さないこと、武器もなく無益に天を見上げている一つの民族を、だからといって滅ぼしたりしないことだ。
お前たちにはできない、殺さないということが、罪深い本性のお前たち、お前たちは殺さないではおれないのだ、
永遠に剣を振り回す者たちよ」。