1.二羽の鷲と葡萄の木の例え
・エゼキエル17章は捕囚民に語られる教訓詩である。イスラエルはバビロニアに占領され、バビロン王ネブカドネザル(大鷲)はゼデキヤを王に立てて、従属を誓わせた。しかしゼデキヤはバビロン王を裏切り、エジプト(もう一羽の大鷲)に接近する。その政策は失敗し、イスラエルはバビロニア軍の再侵攻によって終局的な破滅を迎える。
-エゼキエル17:3-4「主なる神はこう言われる。大きな翼と長い羽をもち、彩り豊かな羽毛に覆われた大鷲がレバノンに飛来する。その鷲はレバノン杉の梢を切り取り、その頂の若い枝を折って、商業の地に運び、商人の町に置いた」。
・例えの意味は明白である。強大な軍事力を持つバビロン王ネブカドネザル(大鷲)がレバノン(エルサレム)に飛来し、レバノン杉の梢(ダビデの末裔であるエホヤキン王)を捕え、商業の地(バビロン)に捕囚とした。例えは続く。
-エゼキエル17:5-6「また、その地の種を取って苗床に蒔き、苗を豊かな水のほとりに柳のように植えた。やがてそれは育ち、低く生い茂るぶどうの木となった。その枝は鷲の方に向かって伸び、根はその鷲の下に張り、若枝を広げ、つるの伸びたぶどうの木となった」。
・バビロン王はその地の種(王族の一人ゼデキヤ)を立て、豊かな水のほとり(エルサレム)に植えた。バビロニアの支配は苛酷であり、イスラエルは低く茂る葡萄の木となった(重税に喘いだ)。ゼデキヤはバビロン王に忠誠を誓ったが、やがてもう一羽の大鷲(バビロンと勢力を競ったエジプト)との同盟により、この苦境を逃れようとする。
-エゼキエル17:7「また、もう一羽の大鷲がいた。これも大きな翼と多くの羽毛を持っていた。このぶどうの木は、その植えられていた場所から、根をこの鷲の方に向け、若枝をこの鷲の方に伸ばして水を得ようとした」。
・古代世界では王が他の王に征服され、その臣下となった時、主人となった王に対して自分の神の名で忠誠を誓う。「ゼデキヤがバビロニアとの契約を破り、エジプトに助けを求めたことは、バビロン王への背信以上に、私への背信ではないか」と主なる神はエゼキエルを通して言われた。東風(バビロン軍の再侵攻)があれば、しおれてしまうだろうと。
-エゼキエル17:9-10「主なる神はこう言われる。このぶどうの木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ、実はもぎ取られないだろうか。芽生えた葉はすべてしおれてしまわないだろうか。それはしおれてしまう。それを根から引き抜くのに、大きな力も、多くの人も必要としない。それは植えられはしたが、果たして成長するだろうか。東風が吹きつけたなら、しおれてしまわないだろうか。その芽を出した場所で、しおれるであろう」。
2.バビロンを裏切るイスラエルの末路
・11節から例えではなく、具体的な名を出して、例えの意味が語られる。ゼデキヤは目先の救済を求めてエジプトを頼った。バイロン王との契約、また私との契約を破って無事であることができようかと主は言われた。
-エゼキエル17:19-21「それゆえ、主なる神はこう言われる。私は生きている。私は、彼が軽んじた私の誓いと、彼が破った私の契約とを、必ず彼の頭上に報いる。私は彼の上に網を広げ、彼は私の罠にかかる。私は彼をバビロンへ連れて行き、彼が私に対して行った背信のゆえに、その地で彼を裁く。彼の全軍の中で、逃れた者もすべて剣に倒れ、更に残った者がいても四方に散らされる。そのとき、お前たちは、主である私が語ったことを知るようになる」。
・捕囚の民の多くは、エジプトの力によって捕囚から解放されるという期待を抱いていた。エゼキエルはその期待を砕く。バビロニアもエジプトもイスラエルという餌食を喰い合う獣であり、そのような者に希望を抱くのは愚かだからだ。
-エゼキエル17:16-17「私は生きている、と主なる神は言われる。彼は、自分を王位につけた大王に対する誓いを軽んじ、彼との契約を破ったので、大王の国バビロンで必ず死ぬ。戦いになって、塁が築かれ、堡塁が建てられ、多くの命が滅ぼされようとも、ファラオ(エジプト王)は彼のために、強力な軍隊や多数の兵隊をもって戦いはしない」。
・22節以下は、エルサレム陥落後にエゼキエルによって語られた預言がここに編集されている。エルサレム陥落前のエゼキエルは罪の告発と悔い改めを迫った。まだ破滅を回避する希望があったからだ。しかし陥落後のエゼキエルは慰めと復興の希望を語る。旧約・新約を貫く福音は「裁きが終わりではなく、その後に救いが残されている」ことだ。
-エゼキエル17:22-24「主なる神はこう言われる。私は高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主である私が、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。主である私がこれを語り、実行する」。
・災いが来ると人は解決の道を求める。しかし災いの原因がつかめていなければ、どのような解決法も無意味だ。今回の東日本大震災においても地震や津波は天災であり、その被害は復旧すればよいが、原発事故は人災であり、単に休止していた火力発電所を復旧して電力供給を増やせば良いというものではない。それではバビロニアから逃れるためにエジプトに救済を求めるのと同じだ。化石燃料への依存は新しい困難をもたらす。私たちが考えるべきは、本当にこれだけの電力が必要なのか、首都圏にこんなに人口を集中させて良いのか、国造りの根本だ。