1.異国寄留者の嘆きの歌
・詩篇120-134編は「都詣での歌」である。バビロン軍侵攻により故国を追われた民は周辺地域に離散し、その中で故郷エルサレムへの巡礼に出かけた。その途上で歌われた歌を集めたものである。120編は直接的には都詣での記述はなく、異郷での寄留生活の苦しさが歌われている。
-詩篇120:1-2「都に上る歌。苦難の中から主を呼ぶと、主は私に答えてくださった。『主よ、私の魂を助け出してください。偽って語る唇から、欺いて語る舌から』」。
・「偽って語る唇、欺いて語る舌」、中傷や誹謗の中にある詩人が救済を求めている。敵は詩人に「主はお前に何を与えてくれたのか。何を加えてくださったのか」と嘲笑する。詩人は、「そのようにうそぶくお前に、主は鋭い矢と火矢を放たれるだろう」と反論する。えにしだはパレスチナでは燃料に用いられた。
-詩篇120:3-4「主はお前に何を与え、お前に何を加えられるであろうか。欺いて語る舌よ、勇士の放つ鋭い矢よ、えにしだの炭火を付けた矢よ」。
・国を亡くして異郷に住むということは、生活の基盤が無くなることである。捕囚の民はかつてその苦しみを、「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って私たちは泣いた」と歌った。
-詩篇137:1-9「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が歌をうたえと言うから。私たちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか。お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者。お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」。
・彼は今異国にいる。その国がどこか分からない。文中のメシェクは小アジアの地域、ケダルはシリアの砂漠である。メシェクやケダルのように故国から遠く離れた地での寄留生活を詩人は嘆いている。
-詩篇120:5「私は不幸なことだ。メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは」
・詩人は「あなたに平和があるように」と人々にあいさつするが、現地の人々は剣や槍を持って応答する。挨拶をしても挨拶が帰ってこない。詩人は心が安らがない場所での寄留生活に疲れている。。
-詩篇120:6-7「平和を憎む者と共に、私の魂が久しくそこに住むとは。平和をこそ、私は語るのに、彼らはただ、戦いを語る」。
2.この詩をどう読むか
・詩人と同じような寄留の苦しみを多くの民族が味わってきた。先の戦争で満州や樺太に残された272万の日本人のうち、107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられ、その結果、死者25万人、行方不明者9万人、計34万人の日本人が異郷で死んでいった。他方、その日本人も勝者である時は他の国々を侵略し、滅ぼしてきた。中国や朝鮮の人々の恨みは今も残る。人間は加害者と被害者の両面を持つ。単純に相手を裁けない。
-マタイ7:1-5「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。
・私たちの住むこの地上世界もメシェクの如く、ケダルの如し、ではないだろうか。人間の歴史は血にまみれている。私たちはソドムとゴモラを異常な世界と思っているが、実は私たちの住む地上世界はソドムとゴムラなのではないか。強者は弱者を痛めつけ、その弱者も強者になれば同じ事をする。人間の中にはどうしようもない悪(原罪)がある。
*ニューヨーク・ブロンクス動物園「鏡の間」には、檻の外から見ている人間の上半身が写る鏡があり、「地球上で最も危険な動物」と書かれている(山崎豊子「沈まぬ太陽」から)。まさにそうではないだろうか。
-ローマ3:10-18「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」。
・「自分が罪人である」ことを認める、それが救いの第一歩だ。ペテロがイエスの弟子として評価されるのは、彼が失敗しないからではなく、失敗から立ち直ったからだ。
-2011年12月4日説教から「ペテロはイエスを裏切りました。イエスの後に従ったからです。他の弟子たちはイエスを裏切りませんでした。イエスの後に従わなかったからです。しかしイエスが、『私の羊を飼いなさい』と群れを委託されたのはペテロであって、他の弟子たちではありませんでした。従う故に挫折があり、挫折があるゆえに恵みがありました。ペテロの挫折は「勇気ある挫折」なのです。私たちの場合もそうです。従う故に挫折があるのですから、挫折を恐れる必要などない。むしろ挫折を通して私たちは主に出会うのです。挫折は神の火による潔めなのです。ペテロが弟子の手本とされているのは彼が失敗しなかったからではなく、彼が挫折から立ち直ったからです。神の国では失敗や挫折は恥ずべきことではないことを覚えたいと思います」。
詩篇120編参考資料:「十字軍に学ぶリーダーとは」塩野七生に聞く(2011年12月6日朝日新聞朝刊より)
・賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。私たちはどちらだろう。地中海世界の歴史を書き続ける作家、塩野七生は「人間は何からも学んでいない。相も変わらず失敗ばかり」と話す。なお続くキリスト教とイスラム教の対立に十字軍の歴史を重ねたら。『十字軍物語』シリーズを完結した塩野の言葉から生きるヒントが見えてくる。「神がそれを望んでおられる」を合言葉に、聖都エルサレムを目指すキリスト教世界の十字軍、それを迎え撃つイスラム教徒。『十字軍物語』は200年に及ぶ両者の壮絶な戦いと、あいまに生まれた和平をダイナミックに描く。結局は失敗に終わった十字軍の事後の受け止め方が、現代につながるという。
・十字軍後、西洋の大学でイスラム学科が生まれた。「負けた時に相手を研究するのがキリスト教世界。後のルネサンスは自分たちへの疑いと反省から生まれ た。最後に勝ったのはキリスト世界でしょう」。一方のイスラム世界は「相手に興味がない。イスラムはなぜ勝利を活用できなかったのか。反省がないから次の 発展がないのです」。
・十字軍の歴史を書きながら「善意ぐらい悪をもたらすものはない」と思ったという。8度にわたる遠征で最も悲惨な結末はフランス王ルイ9世が率いた第7次十字軍。熱心な信者だったルイは、キリスト教徒の血を流してこそ聖戦というローマ法王の言葉を素直に受け止め、無謀な行軍で惨敗、大きな犠牲を払う。「自分に疑いを持っている人(川口注:自分が罪人だと思っている人)はあまり悪行は犯さない。自分を正しいと思っている人たちが災害をもたらすと思う」 。ルイがダメなボスなら、理想のリーダーはイギリス王リチャード「獅子心王」だ。彼の第3次十字軍は交渉でキリスト教徒の聖地巡礼を認めさせた。戦略的な思考と前線に切り込む勇気を併せ持ち「勝つべくして勝った男」と評する。居眠りして捕まりそうになる場面もあるが「俺たちがいないと、と部下に思わせるのが一番強いリーダー。完璧な人はだめです」。