1.捕囚後の再建の困難の中で
・本篇は過越祭に歌われるハレルヤ詩編(113-118篇)の最後の歌である。年代は不明であるが、捕囚帰還後、敵対する者たちの妨害の中でエルサレム城壁を再建したネヘミヤ時代とする見方が有力である。詩人は「困難の中で主を呼び求めると主は応えて下さった」と讃美する。
-詩編118:5-9「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えて私を解き放たれた。主は私の味方、私は誰を恐れよう。人間が私に何をなしえよう。主は私の味方、助けとなって、私を憎む者らを支配させてくださる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう」。
・「人間に頼らず主を避けどころとしよう、君侯に頼ることはしない」、宗教改革者ルターは法王庁からの迫害で四面楚歌になった時(皇帝も王も彼を見捨てた)、この詩編に慰めを見出した。讃美歌538番「神はわがやぐら」はこの詩編から着想を受けて書かれたのであろう(2番:いかに強くともいかでか頼まん、やがてはくつべき人の力を、われとともに戦いたもう、イエスきみこそ、万軍の主なる、あまつおお神)。パウロもローマ書の中で6節を引用している。
-ローマ8:31「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」。
・エルサレム再建事業は困難を極めた。当時、エルサレムを支配していたサマリヤ人たちは周辺部族と共に城壁の再建を妨げた。その中でネヘミヤたちは城壁を再建し、ユダヤ共同体を形成していく。
-詩編118:10-12「国々はこぞって私を包囲するが、主の御名によって私は必ず彼らを滅ぼす。彼らは幾重にも包囲するが、主の御名によって私は必ず彼らを滅ぼす。蜂のように私を包囲するが、茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。主の御名によって私は必ず彼らを滅ぼす」。
・城壁は52日で再建され、エルサレム市街の再建も進められて行った。人々は「主は苦難を通して私たちを試みられたが、命は守って下さった」と感謝する。
-詩編118:13-18「激しく攻められて倒れそうになった私を、主は助けてくださった。主は私の砦、私の歌。主は私の救いとなってくださった。御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。主は私を厳しく懲らしめられたが、死に渡すことはなさらなかった」。
2.棄てられた石が隅の親石になった
・その感謝が22節以下に歌われる。一度は捨てられたイスラエルを主は再び用いて下さったと詩人は感謝する。国が滅ぼされた民が国を再建するなど歴史上なかったことだ。
−詩編118:22「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」。
・この隅の親石の思想は、元来はイザヤから来る。イザヤはイスラエルの使命を「隅の親石」として歌った。
−イザヤ28:16「主なる神はこう言われる『私は一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない』」。
・新約記者はこの言葉の中に、人々に捨てられて十字架で死なれたイエスが、復活のキリストとなられたことの意味を見出した。マルコはブドウ園と農夫のたとえ(主人の息子を殺して農園を横領しようとした)の中でこの言葉を用いる。
−マルコ12:9-11「ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」。
・ペテロはもっと直接的にイエスの十字架と復活の意味をこの言葉に見た。
−第一ペテロ2:4-6「主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです『見よ、私は、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない』」。
・24-26節は神殿での入場の時に歌われた言葉であろう。
−詩編118:24-26「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」。
・「どうか主よ、私たちに救いを」、へブル語:ホーシイア・ナア・アンナ、これを短縮すれば「ホサナ」となる。マルコはこの詩編をイエスのエルサレム入城において群衆に歌わせている。
−マルコ11:8-10「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。