1.捕囚の地で主を慕い求める
・詩編63篇は時代背景をめぐって解釈が分かれる。ある人は王国時代に神殿に救いを求めてきた歌だとし、別の人は第二神殿時代の歌だという。しかし、私たちは「私の魂はあなたを渇き求める」という言葉を手がかりに、エルサレム神殿から遠く離された、捕囚の地にいる詩人が神殿礼拝を恋しのぶ歌と理解したい。同じ歌が詩編42篇にもある。
−詩編42:2-3「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」。
・詩人はエルサレムを遠く離れた地で神を慕い求める。今自分たちはエルサレム神殿での礼拝を行うことができない。それでも遥かに聖所を仰ぎみて詩人は神の臨在を願う。彼の魂も体も渇き求めている。
−詩編63:2「神よ、あなたは私の神。私はあなたを捜し求め、私の魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、私のからだは乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」。
・その時、詩人はこの異邦の地にも神が臨在してくださること感じ、喜びに震える。「あなたは私たちと共にいてくださった。この地にてもあなたと交わることができた」、その喜びを詩人は歌う。
−詩編63:3「今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています」。
・神が共にいてくださった、その慈しみ(ヘセド)に接し、詩人はもう何もいらないという。彼は人間として早くこの地から解放され、エルサレムの地に戻りたいと思っていた。しかし、神が共にいてくださるならば、この地こそ神の国ではないか、詩人は感謝の祈りを捧げる。乳=ヘレブ=脂肪、髄=デシエン=油、脂肪と油はご馳走であった。
−詩編63:4-6「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。私の魂は満ち足りました、乳と髄のもてなしを受けたように。私の唇は喜びの歌をうたい、私の口は賛美の声をあげます」。
・詩編63編の詩人と同じ体験をしたのが、「死の谷を過ぎて〜クワイ河収容所」の著者である。彼は収容所で重い病気に罹り、死を待っていた時、キリスト者の同僚たちの献身的な看護によって体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて回心し、やがて彼自身も奉仕活動に従事し、礼拝を持つようになる。やがて、無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が開かれようになり、賛美の歌声が聞こえてくるようになる。彼はその時、思った「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」(202P)。
2.そこにも神は臨在された
・「神の居ます所がエルサレム」であることを見出した詩人は、讃美の祈りを捧げる。この囚われの地にあっても、神は御翼の陰に私を覆い、右の手で支えてくださると。
−詩編63:7-9「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ず私を助けてくださいます。あなたの翼の陰で私は喜び歌います。私の魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手で私を支えてくださいます」。
・捕囚の地で自分たちを虐げる敵を許すことができないと詩人は思う。しかし神が報復してくださる故に、彼は自分の手で報復しようとは思わない。報復感情は本性のものであり、人間はそれを抑えることはできない。しかし、神に信頼するものは自分の手で報復せず、神に委ねる。
−詩編63:10-11「私の命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食となりますように」。
・詩人は同じバビロンの地に捕囚となっているエホヤキン王の安全を祈る。御心であれば王が再びエルサレムに戻り、ダビデ王家の再興がかないますようにと。
−詩編63:12「神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように」。
・詩編63編の中心になる言葉は4節「慈しみ=ヘセド」であろう。この言葉は旧約に245回用いられ、そのうち詩編が127例を数える。人間は神から「命の息」を吹きこまれ、生きる者になった(創世記2:7)。その人間の命を支え、これを豊にする働きが、慈しみ(ヘセド)である。人は神との関係が正しくある時に「生ける魂」となり、それが断絶した時に「生ける屍」となる。しかし、失意の中にあって死者の世界に閉じ込められたような生もまた、神の慈しみ(ヘセド)に触れることによって、生き生きとした生に戻される。その喜びを歌ったのが「Amazing Grace」である。
Amazing grace how sweet the sound、That saved a wretch like me. I once was lost but now am found, Was blind but now I see.