1.エレミヤの再逮捕
・エレミヤ書前半はエレミヤ再逮捕の出来事を記す。エレミヤは先に王宮の監視の庭に幽閉されたが、ある程度の自由は許され、訪ねてくる人々にバビロン軍への投降を勧めた。そのことが王の役人たちの耳に入る。
-エレミヤ38:1-3「マタンの子シェファトヤ・・・他は、エレミヤがすべての民に次のように語っているのを聞いた。『主はこう言われる。この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデア軍に投降する者は生き残る。命だけは助かって生き残る。主はこう言われる。この都は必ずバビロンの王の軍隊の手に落ち、占領される』」。
・エルサレムを守備する者たちにとって、これは許しがたい背信行為であり、役人たちは王にエレミヤの処刑を求め、ゼデキヤもやむなくこれを許す。ゼデキヤは傀儡王であり、役人たちの支持はなかった。
-エレミヤ38:4-5「役人たちは王に言った『どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです』。 ゼデキヤ王は答えた『あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから』」。
・役人たちはエレミヤを水牢に閉じ込める。当時高齢になっていたエレミヤは遠からず死ぬだろうと思われた。
-エレミヤ38:6「そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ」。
・王宮の宦官エベド・メレクはこのことを知り、エレミヤ救済に動く。彼はゼデキヤ王の承認を得てエレミヤを水牢から救い出す。先にゼデキヤはエレミヤの処刑に賛成し、今回は救済に同意する。優柔不断の王であった。
-エレミヤ38:7-13「宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレクは、エレミヤが水溜めに投げ込まれたことを聞いた・・・エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた『王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから』。王はクシュ人エベド・メレクに『・・・預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい』と命じた・・・彼らはエレミヤを水溜めから綱で引き上げた。そして、エレミヤは監視の庭に留めて置かれた」。
2.ゼデキヤ王との最後の会談
・ゼデキヤは部下に押されて主戦論に立っていたが、このままでは破滅することも知っていた。彼はエレミヤに主の言葉を求める。かつてイザヤの祈りによりエルサレムはアッシリアから救われたが(列王記下19:5-7)、同じような奇跡を神が起こしてくださるのではないかと期待していた。
-エレミヤ38:14「ゼデキヤ王は使者を遣わして、預言者エレミヤを主の神殿の第三の入り口にいる自分のもとに連れて来させ、『あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ』と言った」。
・エレミヤは奇跡を否定する。神の御心は明らかであり、問題は「あなたが従うかどうかだ」と。
-エレミヤ38:17-18「エレミヤはゼデキヤに言った『イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの王の将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない』」。
・ゼデキヤはためらう。エルサレム攻防は1年以上も続いており、多くのユダヤ人将兵が投降してバビロン軍の中にいる。彼らは災いの張本人としてゼデキヤを恨んでいる。降伏したら彼らに殺されるのではないかとゼデキヤは恐れる。ゼデキヤの考えることは最後まで自分のことであり、そこに「民」という視点はない。
-エレミヤ38:19「ゼデキヤ王はエレミヤに言った『私が恐れているのは、既にカルデア軍のもとに脱走したユダの人々である。彼らに引き渡されると、私はなぶりものにされるかもしれない』」。
・私たちはゼデキヤを笑えない。日本がポツダム宣言を無条件に受諾したのは1945年8月14日であるが、実は8月9日に「国体護持の条件」での受諾を打診し、連合軍に拒否されている。無条件降伏=自分を捨てることが難しいのは今回のイラク戦争も同じだ。2003年に始まった戦争は10万人以上の死者と破壊を残して終わったが、米軍はまだアフガニスタンからは撤退出来ていない。「テロとの戦い」が如何に虚しいかを知っても、戦争を止めることができない。
・ゼデキヤはエレミヤの言葉に従う事ができず、エルサレムは最後の日を迎える。ゼデキヤは逃亡したが捕らえられ、息子たちは殺され、彼は両眼を潰されてバビロンに引いて行かれる。彼は最後まで自分だけの安全を考えていた。
-エレミヤ39:2-7「ゼデキヤの第十一年四月九日になって、都の一角が破られた・・・ユダの王ゼデキヤと戦士たちは皆、これを見て逃げた・・・カルデア軍は彼らの後を追い、エリコの荒れ地でゼデキヤに追いついた・・・バビロンの王は、ゼデキヤの目の前でその王子たちを殺した。バビロンの王はユダの貴族たちもすべて殺した。その上で、バビロンの王はゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った」。
*参考資料1「ゼデキヤ王に対するエゼキエルの言葉」
−エゼキエル17:11-18「主なる神の言葉が私に臨んだ。さあ、この反逆の家に語りなさい。このたとえが何を意味するか、お前たちには分からないのか。バビロンの王がエルサレムに来て、王とその家来たちを捕らえ、彼らをバビロンへ連れて行った。そして、王の子らの一人を選び、これと契約を結び、誓いを立てさせ、更に、この国の有力者をも連れて行った。それは、この王国が高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるためであった。しかし、彼は王に背き、エジプトに使者を送って馬と軍勢を得ようとした。果たして、それでうまくいくだろうか。こんなことをして助かるだろうか。契約を破っておきながら、助かるだろうか・・・彼は、自分を王位につけた大王に対する誓いを軽んじ、彼との契約を破ったので、大王の国バビロンで必ず死ぬ。戦いになって、塁が築かれ、堡塁が建てられ、多くの命が滅ぼされようとも、ファラオは彼のために、強力な軍隊や多数の兵隊をもって戦いはしない。彼は誓いを軽んじ、契約を破った。彼は約束をしながら、これらすべての事を行った。彼は逃れることができない」。
*参考資料2「優柔不断の王と独裁的な王のどちらが好ましいのか」
−「バッドペニーは繰り返し手元に戻る〜小沢一郎とキュロス」(2009-05-20篠崎教会ホームページから)
「同志社大学大学院教授で経済学者の浜矩子さんが、2009年5月13日朝日新聞朝刊に「バッドペニー(悪貨)は繰り返し手元に戻る」として、民主党小沢一郎氏の代表辞任・新しい代表選挙についてコメントを寄せた。内容は概ね次のようだ「バッドペニーは繰り返し手元に戻る・・・小沢一郎というバッドペニーもその執拗なカムバックぶりに一種の見事さがあった・・・彼がここまで世にはばかり続けてこられたことについては、彼が果たすべき一定の歴史的、社会的役割があったのではないか・・・聖書に出てくる古代の圧制者キュロス(ペルシャ王)はバビロニアに捕囚されていたユダヤ人たちを解放し、伝道者パウロは元々はキリスト教の迫害者だった・・・圧制者が民族解放の役割を果たし、迫害者が転じて信仰の熱き担い手になる。ことほどさように、天は意外な人物を意外な場面で起用する・・・小沢一郎にヒーロー役は明らかに不似合いだ。新しい流れを呼び起こすイメージはない。むしろ悪しき旧弊に色濃く染まった人物だ・・・だがそのような人物に対してであっても、必要とあらば天命が下る。そこが歴史の面白いところだ」。浜矩子さんがクリスチャンかどうか知らない。しかし聖書を深く学び、聖書の出来事から、現代の政治を見て分析した。その結果、これまでにない洞察が可能になった。キュロスは捕囚地の預言者第二イザヤが「主の僕」「主が油注がれた人」とさえ賞賛した人物だ(イザヤ44:28-45:1)。今、教会の木曜祈祷会でイザヤ書を読んでいるので、浜さんのこの意見を興味深く呼んだ。同時にこの記事を読みながら、同じくイザヤ書を用いて日本の針路を憂えた矢内原忠雄を思い出した。矢内原は1937年「国家の理想」という論文を中央公論に発表した。「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」と矢内原は書いた。矢内原は古代の覇権国家アッシリアの例を引いて、「日本は中国を懲らしめるための神の鞭、アッシリアに過ぎないのに、いつの間にか自分が神のように振舞い始めている」として、1937年7月に盧溝橋事件を起こして、中国本土を征服しようとした日本を批判したのである。戦時中に軍部批判をすることは大きな勇気が必要だったと思う。予想通り、雑誌は発禁処分を受け、矢内原の論文は全文削除となり、これが契機になり、矢内原は東大教授の職を追われた。矢内原論文にあるアッシリアは旧約イザヤ書や列王記に出てくるが、紀元前8世紀に世界帝国となり、パレスチナ諸国を次々に征服した。イザヤは預言の中で、それは神が不信のイスラエルを打つ「鞭」として用いられたからだと言った。ところがアッシリアは神の委託を超えて、自分が主人であるように振舞い始め、「私の前には敵はいない、私こそ神である」と驕り始めた。ここに至って主はアッシリアを撃つことを決意されたとイザヤは預言した。紀元前701年、エルサレムを包囲したアッシリア軍内に疫病が発生し、数十万人の兵が死に、アッシリアは軍を引き揚げ、世界帝国アッシリアはこのごろから勢力を弱め、やがて滅んだ。聖書から世界を見ると、見えなかったものが見えてくる。聖書は「歴史を支配されておられるのは神であり、人間はそこに役割を果たすだけだ」という。聖書を通して、私たちはこの世の出来事や愛国心を相対化し、自己の利益だけでなく公の利益を考えることが出来るようになることを改めて思った。