1.感謝と嘆きと
・詩篇40篇は感謝の歌と嘆きの歌が結合されている。直前の詩篇39編は「死の床にある病者の祈り」であった。編集者はそれを受けて、求める者には主は応えて下さるという感謝の歌をここに挿入したのだろう。滅びの穴、泥沼は陰府を示す。詩人は死の淵から生還することができた。主は不思議な業を行われる、私を陰府から救い出して下さったと詩人は歌う。
-詩篇40:2-4「主にのみ、私は望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、私の足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、私の口に新しい歌を、私たちの神への賛美を授けてくださった」。
・「滅びの穴、泥沼から私を引き上げる神」、「イエスは十字架で死なれた後、陰府にまで下られた」とペテロは記す。「陰府にまで下られる神」、私たちが絶望の底にいる時、神もそこにいて下さる。
-第一ペテロ3:18-19「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。
・それに続き、詩人は主のみ信じると宣言する。文中のラハブは混沌を象徴する海の怪物、ラハブを信ずる者とは異教の教えを奉ずる者の意味であろう。詩人は「あなたに並ぶものはない。あなたの不思議な御業を語り伝えていく」と歌う。
-詩篇40:5-6「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人、ラハブを信ずる者にくみせず、欺きの教えに従わない人は。私の神、主よ、あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。私たちに対する数知れない御計らいを私は語り伝えて行きます」。
・詩人は救われた感謝を示すために、神殿に行くが、その時、犠牲の捧げものや穀物の供え物を持っていかない。なぜなら主が求められるのは、主の御旨を行うことであり、捧げものを捧げることではないからだ。
-詩篇40:7「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、私の耳を開いてくださいました」。
2.犠牲の捧げものではなく、御旨を
・彼は言う「巻物の文には、私のための教えが書かれています」。「巻物」、律法の記された書のことであろう。御言葉を慰めとして詩人は聞き、それを証ししていくと詩人は言う。
-詩篇40:8-10「そこで私は申します。御覧ください、私は来ております。私のことは巻物に記されております。私の神よ、御旨を行うことを私は望み、あなたの教えを胸に刻み、大いなる集会で正しく良い知らせを伝え、決して唇を閉じません」。
・新約へブル書はこの言葉を、キリストの言葉として引用する「いけにえも、穀物の供え物もいらない」と記者は言う。キリストが私たちのために自らの体をいけにえとして捧げられたことによって、私たちはもういけにえを必要としない。
-へブル10:5-10「キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです『あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、私のために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や、罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、私は言いました。御覧ください。私は来ました。聖書の巻物に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行うために』。ここで、まず、『あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった』と言われ、次いで、『御覧ください。私は来ました。御心を行うために』と言われています・・・イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです」。
・聖書が求めるのは祭儀ではなく、御旨を生きることだ。これは新約だけではなく、旧約においてもそうだ。
-イザヤ1:15-17「お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いを私の目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。
・本当の礼拝とは日曜日に教会に集まることだけではなく、日常生活の中で主を証しをしていくことだとパウロも言う。
-ローマ12:1-2「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です・・・心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。
・キリスト者にも苦難は望む。しかし神はその苦難と共におられる。苦難は取り除かれることに意味があるのではなく、苦難の中で神が共にいますことを見出すことにこそ意味がある。殉教は神の御旨であることを迫害の中でヨハネは学んだ。
−ヨハネ黙示録6:10-11「彼らは大声でこう叫んだ『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか』。すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた」。
・ペテロもパウロも主のために殉教していき、人々は死を超えて証しする弟子たちを見て、信仰に入っていった。教父テルトゥリアヌスはいう「殉教者の血は、キリスト者の種」。広島、長崎の尊い犠牲により、人間は核爆弾を用いることができなくなった。阪神・淡路の震災犠牲を通して、将来の震災対策が作られていった。そこに私たちは神の御心を見る。