1.罪の悔い改め
・詩篇51編は罪の悔い改めと赦しを求める詩である。人々はダビデ王の犯した罪とその悔い改めの祈りとして、この詩を見て、それにふさわしい表題を付けて唱和した。
−詩篇51:1-2「ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」。
・ダビデの犯した罪はサムエル記下11−12章に詳しい。ダビデ王が部下ウリヤの妻バテシバに恋情を抱き、ウリヤを殺してバテシバを自分のものにした時、預言者ナタンが王を諌め、王は悔い改めた事件だ。
−サムエル記下12:13「ダビデはナタンに言った『私は主に罪を犯した』。ナタンはダビデに言った『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる』」。
・詩人は自己の罪を告白し、その赦しを神に乞う。彼は神に背き、罪を犯した。その結果平安は彼から去った。罪は赦されなければ消えない。だから彼は神の慈しみと憐れみによって、罪を洗い清めて下さるように祈る。
−詩篇51:3-4「神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください」。
・罪とは具体的には、人に犯した罪である。ダビデもウリヤをだまし、その妻を横取りし、最後にはウリヤを謀殺する。しかし、その罪は突き詰めると神に逆らう行為である。だから詩人は「神に背いた」、「神の前に罪を犯した」と告白する。そしてその罪が生まれおちた時からあった、原罪であることを告白する。
−詩篇51:5-8「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます」。
・ダビデもまたナタンに告発されて初めて罪の現実に目を開かれた。その罪は自分の力では洗い流せない。だから神に罪を洗い流して下さるように祈る。ヒソプ、香り草であり、らい病や犠牲を清めるときに用いられた。
−詩篇51:9-11「ヒソプの枝で私の罪を払ってください、私が清くなるように。私を洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください」。
2.赦しと新生
・罪の清めとは単に処罰が赦されることではない。古き自己が葬られ、新たな自己に生かされることである。それはパウロの言う「新生」である。罪を清められた者は、新生の希望を望み、新たな自己に生きる希望を歌う。
−詩篇51:12-14「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください」。
・新生したものは、神の恵みを証しし、人に伝え、讃美する。罪を清められた魂は他者へと開かれていく。
−詩篇51:15-17「私はあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」。
・罪の許しは悔い改めの結果与えられるものであり、それは神殿に犠牲の動物を捧げることによってではない。私たちが捧げるべきいけにえは「砕かれた霊」であり、主は「砕かれた悔いる心」を受け入れて下さる。
−詩篇51:18-19「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。
・詩篇編集者はこの詩に「ダビデの歌」との表題を付けたが、二次的な表題であり、内容的には捕囚期以後の詩である(51:20−21参照)。人々は何故ダビデを敬うのか、それはダビデがイスラエルを繁栄に導いた王であるからではなく、王であるにも関わらず、その罪を認め、神の前に悔い改めたからだ。高橋三郎は「エロヒーム歌集」の中で解説する。
−高橋三郎「イスラエルはその王なるダビデの醜悪な罪をこの詩を唱和する毎に想起し、打ちのめされた罪人の告白の中にこそ、信仰による生の原点を見出した」。
・人々がこれをダビデの悔い改めの祈りとして親しんできた歴史は重い。米国のビリ・クリントン大統領が不倫疑惑を責められ、告白して悔い改めた時も、この詩篇51編を引用している。クリントンは、ダビデの罪の告白に自分と重ね合わせていた。
−1998年9月11日ホワイトハウス朝食祈祷会でのクリントンの言葉「But I believe that to be forgiven, more than sorrow is required - at least two more things. First, genuine repentance - a determination to change and to repair breaches of my own making. I have repented. Second, what my bible calls a ''broken spirit''(詩篇51:19); an understanding that I must have God's help to be the person that I want to be; a willingness to give the very forgiveness I seek; a renunciation of the pride and the anger which cloud judgment, lead people to excuse and compare and to blame and complain」.
・マタイはイエス・キリストの系図の中にバテシバの名前を入れる「ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」と。単純に「ダビデはソロモンの父」と書けばよいのに、何故「ウリヤの妻によって」と記すのか。それはキリストの系図もまた、汚れていたことを示すためである。人間は罪の中に生まれ、その罪を背負って生きる存在であり、その人間の罪を背負うためにキリストは来られたことを示すためである。
マタイ1:1-16「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。・・・エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。