1.苦しみの想起
・哀歌はいろは歌の形式をとるが、唯一この第五歌のみはその形式をとらず、主語は一貫して「私たち」である。私たちの祈り、ギリシャ語聖書は「エレミヤの祈り」と表題をつけた。祈りは「主よ、目を留めて下さい」と言う言葉で始まる。-哀歌5:1-3「主よ、私たちにふりかかったことに心を留め、私たちの受けた嘲りに目を留めてください。私たちの嗣業は他国の民のものとなり、家は異邦の民のものとなった。父はなく、私たちは孤児となり、母はやもめとなった」。
・ユダの国は解体し、バビロニヤの属州になってしまった。自分の国にいるのに、水や木にさえも重い租税が課せられた。
-哀歌5:4-5「自分の水をすら、金を払って飲み、自分の木からすら、価を払って取り入れる。首には軛を負わされて追い立てられ、疲れても、憩いはない」。
・かつて奴隷であった異邦人が今は私たちを支配し、荒野の遊牧民は私たちを襲おうとうかがっている。それは私たちの先祖が犯した罪の故であり、その罪の代価を今私たちが支払っていると詩人は訴える。
-哀歌5:6-10「私たちはエジプトに手を出し、パンに飽こうとアッシリアに向かった。父祖は罪を犯したが、今は亡く、その咎を私たちが負わされている。奴隷であった者らが私たちを支配し、その手から私たちを奪い返す者はない。パンを取って来るには命をかけねばならない。荒れ野には剣が待っている。飢えは熱病をもたらし、皮膚は炉のように焼けただれている」。
・人生には「身に覚えのある困難」と「身に覚えのない困難」がある。詩人は外国の軍隊の進撃とそれに続く虐殺を「身に覚えのある困難」と受け入れることが出来ない。原爆で死んでいった人々もアウシュヴィッツで殺された人々も直接的に罪を犯したわけではない。しかしその困難を「不当だ」、「不公平だ」と叫び続ける時、その苦しみは彼を殺す。詩人はその苦しみをも「神の業」と受け入れて行き、神に対して泣きごとや不平を叫ばない。そこに哀歌の意味がある。
-?コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。
・女性は凌辱され、支配者たちは縛り首となり、若者は奴隷として働かせられる。町の広場からは楽の音は消えた。国が戦争に敗れた時は、いつもこのような惨劇が繰り返される。「神は何をしておられるのか」、詩人の信仰は揺らいでいる。
-哀歌5:11-14「人妻はシオンで犯され、乙女はユダの町々で犯されている。君侯は敵の手で吊り刑にされ、長老も敬われない。若者は挽き臼を負わされ、子供は薪を負わされてよろめく。長老は町の門の集いから姿を消し若者の音楽は絶えた」。
・喜びの踊りは服喪の悲しみに変わり、王国の冠は地に落とされ、主の神殿は廃墟となり、狐が住み着いている。
-哀歌5:15-18「私たちの心は楽しむことを忘れ、踊りは喪の嘆きに変わった。冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。私たちは罪を犯したのだ。それゆえ、心は病み、この有様に目はかすんでゆく。シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く」。
2.復興の祈り
・しかし詩人は光の見えない絶望の中で「主の御名」を呼び始める。「主よ、あなたこそ全地を支配される方、私たちにこの災いをお与えになった方、どうか私たちにもう一度眼を留め、回復して下さい」と詩人は祈る。
-哀歌5:19-20「主よ、あなたはとこしえにいまし、代々に続く御座にいます方。なぜ、いつまでも私たちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか」。
・「主よ、何故私を捨てられたのか」とは十字架上のイエスの叫びである。それは不信仰の言葉ではなく、捨てられたとしか思えない状況の中でも、なお「主の御名を呼ぶ」信仰の叫びなのだ。
-マタイ27:46「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』、これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
・災いをお与えになったのは主であり、主はその災いを祝福に変えることのできる方だと信じる故に、詩人は「私たちはあなたの下に立ち返ります」と叫ぶ。哀歌は「ああ」と言う嘆きで始まり、「私たちは帰ります」と言う希望で終わる。
-哀歌5:21-22「主よ、御もとに立ち帰らせてください。私たちは立ち帰ります。私たちの日々を新しくして、昔のようにしてください。あなたは激しく憤り、私たちをまったく見捨てられました」。
・5:22は絶望の叫びのように聞こえるがそうではない。現在が絶望であっても、それは神が始められた業の一過程であり、このまま終わるわけではない。神は私たちを懲らしめられてもまた憐れんで下さる。その信仰が人々を生き残らせる。
-哀歌3:31-33「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・アイシュヴィッツを生き残ったビクトール・フランクルは言う「生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」(『夜と霧』より)。