1.苦難の中にあって神に助けを求める
・イスラエルは、前587年に国をバビロンに滅ぼされた。バビロンやその同盟国は聖都を焼き滅ぼし、神殿も廃墟とした。彼らは今でもイスラエルの民を嘲笑し迫害している。詩人は神殿の跡地に立ち、敵への報復を、正義の実現を主に願った。
-詩編74:21-23「虐げられた人が再び辱められることなく、貧しい人、乏しい人が御名を賛美することができますように。神よ、立ち上がり、御自分のために争ってください。神を知らぬ者が絶えずあなたを嘲っているのを、御心に留めてください。あなたに刃向かう者のあげる声、あなたに立ち向かう者の常に起こす騒ぎを、どうか・・・忘れないでください」。
・詩編75篇はその続編と思われる。願いがかなえられると信じる詩人は最初に感謝を捧げる。
-詩編75:2「あなたに感謝をささげます。神よ、あなたに感謝をささげます。御名は私たちの近くにいまし、人々は驚くべき御業を物語ります」。
・それに対して主が応答される。「私は時が来れば必ず公平な裁きを行う。今、地は虚無に服しているが、私が地の柱をしかと固める。驕る者、逆らう者の角をそびやかすなと言う」。
-詩編75:3-6「私は必ず時を選び、公平な裁きを行う。地はそこに住むすべてのものと共に溶け去ろうとしている。しかし、私は自ら地の柱を固める。私は驕る者たちに、驕るなと言おう。逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな」。
・角は力の象徴であり、その力を背景に驕り、高ぶる者には必ず主は懲らしめをお与えになる。すべては主の支配下にあり、驕り高ぶる者の角は折られるというのは、イスラエルの変わらぬ信仰であった。サムエル記ハンナの歌もそれを示す。
-?サムエル記2:1-10「主にあって私の心は喜び、主にあって私は角を高く上げる・・・驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか・・・主は逆らう者を打ち砕き、天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし、王に力を与え、油注がれた者の角を高く上げられる」。
・詩人は、自らの経験を通しながら、神の絶対的主権を認める。その主権は、私たちの生活に及ぶ主権である。「神は裁く方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ」と詩人は歌う。
-詩編75:7-8「そうです、人を高く上げるものは、東からも西からも、荒れ野からも来ません。神が必ず裁きを行い、ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう」。
・その信仰は新約にも継承される。イエスも驕り高ぶる者は砕かれると預言された。
-マタイ23:12「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
2.神の怒りの杯
・神の正義は貫徹される。「杯は主の御手にあり、調合された酒が泡立っている」と詩人は言う。このぶどう酒は神の怒りの杯であり、「驕る者、逆らう者は最後の一滴まで飲み干さなくてはならない」と詩人は続ける。
-詩編75:9-10「すでに杯は主の御手にあり、調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み、おりまで飲み干すでしょう。私はとこしえにこのことを語り継ぎ、ヤコブの神にほめ歌をささげます」。
・エレミヤはバビロンが主の怒りの鞭としてイスラエルを打つと預言したが、同時にバビロンがその役割を超えて驕り高ぶる時、主は彼らに怒りの杯を飲ませられるであろうと預言する。
-エレミヤ25:15-16「それゆえ、イスラエルの神、主は私にこう言われる『私の手から怒りの酒の杯を取り、私があなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、私が彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる』」。
・主は正義を貫徹される。例え現在、悪が栄え、善が迫害される状況であっても、必ずそれは糺される。
-詩編75:10-11「私は逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる」。
・神の正義は貫徹される。悪は裁かれるべきなのだ。しかし自分で裁いてはいけない。主に委ねるのだ。
-ローマ12:18-19「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります」。
・神の正義が貫徹されるためには、犯した罪の贖いを誰かが行う必要がある。イエスがこの「主の怒りの杯」を飲むことによって私たちの罪は赦された。それが聖書の使信である。
-ルカ22:42-43「『父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください』。すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた」。
・このキリストの飲まれた杯、彼の流された血により、私たちは癒された。だから私たちはこの方に信頼して生きて行く。
-?ペテロ2:24-25「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。