1.エジプトへ逃げるユダの人々
・バビロン王が立てた総督ゲダルヤの暗殺後、ゲダルヤの部下ヨハナンたちは、バビロン軍の報復を恐れてエジプトに逃亡しようとするが、その行為に神の保証を求め、エレミヤに取り次ぎを依頼する。しかしエレミヤの預言は「エジプトに行くな」というものだった。
−エレミヤ42:18-22「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちがエジプトへ行けば、私の怒りと憤りがエルサレムの住民にふりかかったように、あなたたちにふりかかる。あなたたちは、呪い、恐怖、ののしり、恥辱の的となり、二度とこの場所を見ることはできない。ユダの残った人々よ、主はあなたたちに対して、『エジプトへ行ってはならない』と語られた・・・私が今日それを告げたのに、自分の神である主の声を聞こうとせず、主が私を遣わして語られたことを全く聞こうとしない。だから今、行って寄留しようとしているその場所で、あなたたちは剣、飢饉、疫病によって死ぬことを、しっかりと知らねばならない」
・人々は神の御心に従おうとして、エレミヤに執成しを依頼した。しかし、御心が自分たちの願いと異なると、エレミヤを偽預言者と言い始める。彼らは神の言葉に従おうとはしなかった。
-エレミヤ43:1-3「主がエレミヤを遣わして伝えさせたすべての言葉を・・・語り終えた時、・・・アザルヤ・・・ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った『あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、エジプトへ行って寄留してはならないと言ってはおられない。ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ』」。
・こうして彼らはエジプトに逃げ、国境の町タフパンヘスに居留した。彼らはエレミヤをも無理に連れ去る。
−エレミヤ43:4-7「こうして、カレアの子ヨハナンと軍の長たちすべて、および民の全員は、ユダの地にとどまれ、という主の声に聞き従わなかった。カレアの子ヨハナンと軍の長たちはすべて、避難先の国々からユダの国に引き揚げて来たユダの残留民をすべて集めた。そこには、親衛隊長ネブザルアダンが、シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤに託した男、女、子供、王の娘たちをはじめすべての人々、および預言者エレミヤ、ネリヤの子バルクがいた。そして彼らは主の声に聞き従わず、エジプトの地へ赴き、タフパンヘスにたどりついた」。
2.エジプトにて
・エレミヤはエジプトでも預言を続けた。43章8節から、エレミヤがエジプトで行った預言が記されている。
−エレミヤ43:8-12「主の言葉がタフパンヘスでエレミヤに臨んだ 『大きな石を手に取り、ユダの人々の見ている前で、ファラオの宮殿の入り口の敷石の下にモルタルで埋め込み、彼らに言いなさい。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は使者を遣わして、私の僕であるバビロンの王ネブカドレツァルを招き寄せ、彼の王座を、今埋めたこの大石の上に置く。彼は天蓋をその上に張る。彼は来て、エジプトの地を撃ち、疫病に定められた者を疫病に、捕囚に定められた者を捕囚に、剣に定められた者を剣に渡す。彼はエジプトの神殿に火を放ち、神殿を焼き払い、また神々を奪い去る。また羊飼いが上着のしらみを払い落とすように、エジプトの国土を打ち払って、安らかに引き揚げて行く』」。
・エレミヤはこの預言の2年後(前585年)にエジプトで殉教死したと伝えられる。エレミヤの最後の預言は「バビロン軍のエジプト侵攻」であるが、この預言はエレミヤ没後20年の前568年に実現した。バビロン王ネブカドネザルはエジプトに侵攻し、エジプト王アマシスと会戦し、エジプトの略奪を行っている。歴史は人の生涯を超えて進んでいくことを見た時、信仰とは見えないものを信じ、来るべき約束を待望することだと思える。
−へブル11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
・1890年ナイル川上流のエレファンティン島から紀元前5世紀にユダヤ人兵士や貿易商たちが住んでいたことを示すパピルスが見つかっている。それによれば、彼らの信仰は変質し、もはや主の民ではなく、天の女神イシュタルトを信じる偶像教になっていたという。エレミヤ44章の記述と重ね合わせれば興味深い。
−エレミヤ44:17-18「我々は誓ったとおり必ず行い、天の女王に香をたき、ぶどう酒を注いで献げ物とする。我々は、昔から父祖たちも歴代の王も高官たちも、ユダの町々とエルサレムの巷でそうしてきたのだ。我々は食物に満ち足り、豊かで、災いを見ることはなかった。ところが、天の女王に香をたくのをやめ、ぶどう酒を注いでささげなくなって以来、我々はすべてのものに欠乏し、剣と飢饉によって滅亡の状態に陥った」。
・エジプトに逃れた人々は国の滅亡を通して、「主は私たちを捨てられた」としてその信仰を失い、生死を司るバアルやイシュタルトを信じるアミニズム信仰に戻ってしまった。他方、バビロンの捕囚民はその地にも神がおられることを見出し、自分たちの主こそが天地の創造主であるとの信仰を持ち、それを創世記等の物語として記述し、やがてユダヤ教やキリスト教の土台石になっていく。与えられた苦難を自分の思いで対処しようとする時人は神から離れ、苦難を受け入れていく時、神は導きを下さるのだ。