江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年9月15日祈祷会(詩編64篇、人の企みと神の業)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.無実の告発に苦しむ詩人

・詩編64編は無実の罪で告発された詩人が神に救済を求める詩である。詩人は「敵の脅威」に命の危険を感じ取り、神に「私の命」の保護を望み、「苛む者の集り」から、「悪を行う者の騒ぎ」から、「私を隠してください」と祈る。
−詩編64:2-3「神よ、悩み訴える私の声をお聞きください。敵の脅威から私の命をお守りください。私を隠してください、さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから」。
・無実の罪で告発を受け、偽の証言で有罪となり、社会的命を絶たれる事例は数限りなくある。イエスを裁いた最高法院の死刑判決もそうであった。
−マタイ26:59-61「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、 『この男は、神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができると言いました』と告げた」。
・菅家利和さんが裁かれた足利事件(1990年逮捕、再審無罪2009年)が冤罪であったことは明らかになったし、最近では厚労省村木元局長・郵便不正事件でも、検察の証拠偽造の疑いが強まり、無罪判決が言い渡されている(2010.9.10、大阪地裁)。不正な告発者は「舌を鋭い剣」とし、「毒を含む言葉を矢」として、隠れた所から射る。
−詩編64:4-5「彼らは舌を鋭い剣とし、毒を含む言葉を矢としてつがえ、隠れた所から無垢な人を射ようと構え、突然射かけて、恐れもしません」。
・彼らは、自分たちの悪事が「見抜かれることはない」とうそぶき、悪巧みが「判明することはない」と言い放つ。その悪意は人の目に見えず、人はそれに騙されてしまう。
−詩編64:6-7「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け、『見抜かれることはない』と言います。巧妙に悪を謀り、『我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す』と言います」。

2.その告発から救いだされる主

・しかし神は真実を見ぬいておられる。神は企まれた不正を暴き、彼らの悪意の矢を彼ら自身に打ち返される。彼らの毒のある言葉が、彼ら自身の墓穴を掘るであろうと詩人は断言する。
−詩編64:8-9「神は彼らに矢を射かけ、突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり、見る人は皆、頭を振って侮るでしょう」。
・かくて悪人の悪巧みは神により粉砕され、悪人はその報いを受け、人々はそこに神の業を見て、神を讃美する。
−詩編64:10-11「人は皆、恐れて神の働きを認め、御業に目覚めるでしょう。主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります」。
・しかし、現実の社会では「正しい人の正しさが明らかにされ、不正の人は罰を受ける」わけではない。戦後の日本では多くの人が「捕虜虐待」等で処刑されたが、大半は現場の指揮官や兵士たちであり、戦争を企画し遂行した高級参謀等の罪は見逃されている。B級戦犯として死刑判決を受けた加藤哲太郎氏の「私は貝になりたい」との言葉は重い。
−加藤哲太郎・狂える戦犯死刑囚より「こんど生まれかわるならば、私は日本人にはなりたくありません。二度と兵隊にはなりません。いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生まれません、人間にいじめられますから。・・・私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にへばりついて何の心配もありませんから。何も知らないから、悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなることもないし、兵隊にとられることもない。妻や子供を心配することもないし、どうしても生まれかわらねばならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」。
・短期的には私たちは多くの不条理な苦しみを見るであろう。しかし終には「そこに神の業が働く」のを我々は見るであろう。バビロン捕囚は短期的にはイスラエルに対する災いであったが、その捕囚地で預言書が編集され、創世記や出エジプト記がまとめられた。捕囚がなければ旧約聖書は生まれなかったであろう。捕囚を通じてイスラエルは王や神殿に依存する民族から、聖書の民へと変えられていった。
−エレミヤ29:10-11「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」
・「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10:26)、今は全部を知らないがやがては知るようになる、それが私たちの信仰である。
−?コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。

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