1.徹底的な苦しみを与えられるシオンの娘
・哀歌はアルファベット(へブル語アーレフ〜タフ)順に歌われるいろは歌であり、すべての歌が22節で詠われる(中心の第三歌のみ66節)。それは深い感情を抑制し、冷静に自分たちの悲しみを振り返るための形式だ。悲しみをも客観化する。それは自虐ではなく、悔い改めるためだ。第四歌も「エーカー」、ああと言う嘆きで始まる。
-哀歌4:1-2「なにゆえ、黄金は光を失い純金はさげすまれているのか。どの街角にも、聖所の石が打ち捨てられているのか。貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が、なにゆえ、土の器とみなされ、陶工の手になるものとみなされるのか」。
・エルサレムの町は廃墟となった。その町を飢餓が襲いかかる。山犬ですら乳を与えて子を養うのに、シオンの娘たちは駝鳥のように子を放り、乳飲み子たちは食べ物を求めて泣き叫ぶ。エルサレムの罪は滅ぼされたソドムより重かった。
-哀歌4:3-6「山犬ですら乳を与えて子を養うというのに、わが民の娘は残酷になり、荒れ野の駝鳥のようにふるまう。乳飲み子の舌は渇いて上顎に付き、幼子はパンを求めるが、分け与える者もいない。美食に馴れた者も、街にあえぎ、紫の衣に包まれて育った者も塵にまみれている。ソドムは、その罪のゆえに人の手によらず一瞬にして滅んだが、私の民の娘はそれよりも重い罪を犯したのだ」。
・詩人は言う「剣に貫かれて死んだ者は飢えに貫かれた者より幸いだ」。絶望的な飢餓の前では人々の醜さが露出され、自分が生きるために子さえも煮炊きして食べる地獄の光景が展開する。
-哀歌4:9-10「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ。刺し貫かれて血を流す方が、畑の実りを失うよりも幸いだ。憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。私の民の娘が打ち砕かれた日、それを自分の食糧としたのだ」。
・「誰もエルサレムを滅ぼすことは出来ない」と預言者も祭司も言った。そのエルサレムが燃え上がり、廃墟となった。私たちは祭司たちの偽りの預言を聞き、エレミヤの言葉に耳を傾けなかった。その報いを今私たちは受けているのだ。
-哀歌4:11-14「主の憤りは極まり、主は燃える怒りを注がれた。シオンに火は燃え上がり、都の礎までもなめ尽くした。 私たちを苦しめる敵がエルサレムの城門から入るなどと、地上の王の誰が、この世に住む誰が、信じえたであろう。 これはエルサレムの預言者らの罪のゆえ、祭司らの悪のゆえだ。エルサレムのただ中に正しい人々の血を注ぎ出したからだ。彼らは血に汚れ、目は見えず、街をさまよう。その衣に触れることはだれにも許されない」。
・預言者が預言者としての使命を果たさず、祭司が祭司に与えられた使命を果たさないことがこの惨劇を招いたとの悔い改めがここでも為されている。再び立ち上がるためには徹底的に砕かれることが必要なのだ。
-哀歌2:14「預言者はあなたに託宣を与えたが、むなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには、一度、罪をあばくべきなのに、むなしく、迷わすことを、あなたに向かって告げるばかりであった」。
2.その絶望の中で赦しの声が聞こえてくる。
・私たちは「神に呪われた」者として排斥され、敵は私たちを待ちぶせて暴行する。「終わりの時が来た」と詩人は嘆く。
-哀歌4:15-18「去れ、汚れた者よと人々は叫ぶ。去れ、去れ、何にも触れるなと。こうしてさまよい歩けと国々は言う。再びここに住むことはならないと。主は御顔を背け、再び目を留めてはくださらない。祭司らは見捨てられ、長老らは顧みられない・・・町の広場を歩こうとしても、一歩一歩をうかがうものがある。終りの時が近づき、私たちの日は満ちる。まさに、終りの時が来たのだ」。
・主が油を注がれた王も捕えられ、「ダビデの末は永遠に」と約束された王家も滅んだと詩人は嘆く。
-哀歌4:19-20「私たちに追い迫る者は空を飛ぶ鷲よりも速く、山々に私たちを追い回し荒れ野に待ち伏せる。主の油注がれた者、私たちの命の息吹、その人が彼らの罠に捕えられた。異国民の中にあるときも、その人の陰で生き抜こうと頼みにした、その人が」。
・詩人の恨みはバビロン軍の先兵となってエルサレムを略奪したエドムに集中される。この兄弟国もまた主の裁きを受けよ、その時こそ私たちの罪が赦される時だと。
-哀歌4:21-22「娘エドムよ、喜び祝うがよい、ウツの地に住む女よ。お前にもこの杯は廻って来るのだ。そのときは、酔いしれて裸になるがよい。おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない。娘エドムよ、罪の罰せられる時が来る。お前の罪はことごとくあばかれる」。
・罪を見つめ、罪の贖いの悲惨さを徹敵的に味わった時、赦しは来る。徹底的な悔い改めこそ、赦しへの道だ。
-哀歌3:28-30「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」。
・神の正義が貫徹されるためには、犯した罪の贖いを誰かが行う必要がある。イエスが「主の怒りの杯」を飲むことによって私たちの罪は赦された。哀歌の悲惨をイエスは代わりに受けて下さったのだ。
-ルカ22:42-43「『父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください』。すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた」。
*哀歌4章参考資料―現代の哀歌「戦後・引き揚げ者らの記録から(2006年8月読売新聞九州版より)」
二日市保養所。入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より) 「不幸なるご婦人方へ至急ご注意」。満州や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり、そのため体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」。全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。
ビラを配ったのは京城帝大医学部の医師たちのグループ。このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
医師らから提案を受けた厚生省博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。
特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、今年5月14日に行われた「水子供養祭」(福岡県筑紫野市)。引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。「生身をこそげ取るわけだから、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。
幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆に受けた。白い肌に赤い髪、長い指。ソ連の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。
死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)らの仕事だった。手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。
1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません」。