1.嘆きから悔い改めに
・哀歌3章は哀歌の中核をなす部分だ。詩人は主の怒りの杖に打たれる惨めさを体験した。それは光のない闇の中を追いかけられて歩くような経験だった。詩人の肉は撃たれ、骨は砕かれた。何よりの苦しみは主がそれを為されたことだ。
-哀歌3:1-4「私は主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。その私を、御手がさまざまに責め続ける。私の皮膚を打ち、肉を打ち、骨をことごとく砕く」。
・詩人は主の救いを求めて祈ったが、救いはどこからも来なかった。主は獲物を待ち伏せる熊や獅子のように、逃げまどう私たちを引き裂かれた。彼は言う「私の生きる力は失せた」と。
-哀歌3:7-18「柵を巡らして逃げ道をふさぎ、重い鎖で私を縛りつける。助けを求めて叫びをあげても、私の訴えはだれにも届かない・・・熊のように私を待ち伏せ、獅子のようにひそみ、逃げ惑う私を引き裂いて捨てる。弓に矢をつがえて引き絞り、私にねらいを定める・・・砂利をかませて私の歯を砕き、塵の中に私を打ち倒す。私の魂は平和を失い幸福を忘れた。私は言う『私の生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう』と」。
・嘆きの歌が19節から主の慈しみを求める祈りに変わる。主はかつて底の底から私を立ち上がらせて下さった、その方が苦しめるだけのために私を打たれているとは思えない。この苦しみには意味があるのだと詩人は思い始める。新生讃美歌59番はこの哀歌3:22-23を基にした讃美歌だ。
-哀歌3:19-24「苦汁と欠乏の中で、貧しくさすらったときのことを、決して忘れず、覚えているからこそ、私の魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる『あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分』と私の魂は言い、私は主を待ち望む」。
・絶望の中で詩人は歌う「私は主を待ち望む」。アウシュヴィッツに収容されたエリ・ヴィーゼルが経験したことも同じ祈りだった。彼は「夜」と言う作品の中で、絶望の中で主に出会う体験をする。
-エリ・ヴィーゼル・夜から「三人の死刑囚は、一緒にそれぞれの椅子に登った。三人の首は同時に交索の輪の中に入れられた。『自由万歳』と、二人の大人は叫んだ。子供は黙っていた。「神様はどこだ。どこに居られるのだ」、私の後ろで誰かがそう尋ねた。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。全収容所内に絶対の沈黙・・・私達は涙を流していた。二人の大人は直ぐに死んだ。子供は軽いので30分余り私達の目前で臨終の苦しみを続けていた・・・私の後ろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた『いったい神はどこに居られるのだ』。そして私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた「どこだって。ここにおられる・・・ここに、この絞首刑台に吊るされておられる」。
2.絶望の底からの祈り
・希望の回復は裁きのただ中から生まれる。苦難の意味を思いつめて行った時、涙を流しながら私たちを打たれている神の姿が見えてくる。その時、絶望の底から主を賛美する声が響き始める。詩人は主を「幸いをお与えになる」と讃美する。
-哀歌3:25-33「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・私たちが体験する苦しみは決して不条理の苦しみではない。主は災いも幸いもお与えになる。それを受けて行こう。
-哀歌3:37-39「誰が『あれ』といってあらしめえようか。主が命じられることではないか。災いも、幸いも、いと高き神の命令によるものではないか。生身の人間が、ひとりひとり、自分の過ちについてとやかく言うことはない」。
・主の赦しに接して詩人は自分たちの罪が見えて来た。私たちは今主に打たれて泣いているが、それは私たちが主に逆らい、罪を犯したからではないか。その贖いを今果たすのだと。連合軍の爆撃と砲火で国土を焦土にされたドイツのキリスト者たちは敗戦の半年後に「シュットトガルト罪責宣言」をする。自分たちの加害責任を廃墟の中で告白した(注)。
-哀歌3:40-42「私たちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう。天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう。私たちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした」。
・しかし敵に対する報復の心は去らない。「正義の神よ、私たちを打たれたように、敵をも打ち給え」と詩人は祈る。
-哀歌3:58-66「主よ、生死にかかわるこの争いを、私に代わって争い、命を贖ってください。主よ、私になされた不正を見、私の訴えを取り上げてください・・・主よ、その仕業にしたがって、彼らを罰してください。彼らの上に呪いを注いで、彼らの心を頑にしてください。主よ、あなたのいます天の下から彼らを追い、御怒りによって滅ぼし去ってください」。
・それは不当な祈りではない。悪は裁かれるべきなのだ。しかし自分で裁いてはいけない。主に委ねるのだ。
-ローマ12:18-19「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります」。
*哀歌3章・参考資料「シュトゥットガルト罪責宣言(1945年)」
敗戦を迎えたドイツ福音主義教会の告白教会の人々は、どん底の苦悩から立ち上がって新しい再建の道を見出すべく、1945年8月トライザ、同年10月シュツットガルトに集まった。シュツットガルトにおける会議が、世界教会会議の代表を迎えて開かれた時、ニーメラーの首唱のもとに、教会の罪を明らかにすることをもって教会の再出発の原点とすべく、1945年10月19日、公にせられたものが、この宣言である。一般に「シュツットガルト罪責宣言」という。
ドイツ福音主義教会の常議員会は、シュツットガルトにおいて1945年10月18、19の両日開催された会議に際し、世界教会協議会の代表に対して、挨拶を送るものである。われわれは、国民と共に、苦難の大いなる共同体の中にあるのみならず罪責の連帯性の中にもあることを自覚すればこそ、なおさらこの世界教会協議会代表の訪問を感謝する。われわれは大いなる痛みをもって次のように言う。われわれによって、はてしない苦しみが多くの国民、国土にもたらされた。われわれがしばしば各教会に向かって証ししたことであるが、それをわれわれは今全教会の名において語る。なるほどわれわれは、国家社会主義の暴力的支配の中にその恐るべき姿をあらわした霊に抗して、長い年月の間、イエス・キリストの御名において戦っては来た。しかしわれわれは、われわれがさらに勇敢に告白しなかったこと、さらに忠実に祈らなかったこと、さらに喜びをもって信じなかったこと、そしてさらに熱烈に愛さなかったことを、自らに向かって責めるものである。
今こそわれわれの教会の中に、新しい始まりが起こされねばならない。聖書に根ざし、全き真実をもって教会の独一の主を基としながら、教会は、信仰に関わりのないものの影響から身を清め、自分自身の秩序を整えることを始める。われわれは、恵みと憐れみの神に、われわれの教会を神が道具として用い給い、また、御言葉を宣べ伝える全権と、われわれ自身ならびに全国民の間に御心に対する従順を造り出す全権とを、神が教会に与え給わんことを願う。
われわれがこの新しい始まりにあたって、全世界的な交わりの中にある他の諸教会と心からのつながりを持っているということを知ることが許されるのは、われわれにとって溢れるような深い喜びである。われわれは神に願う。諸教会の共同の奉仕を通して、今日新しく力を得ようとしている暴力と復讐の精神が全世界において抑止され、悩み苦しむ人間がそこにおいてのみ癒しを見出しうるような、そういう平和と愛の精神が支配する日が来るようにと。そこでわれわれは、全世界が一つの新しい始めを必要としている時にこそ、「来たり給え、造り主なる御霊よ」と祈るものである。