1.取り残されたエルサレムの民
・イスラエルは三度にわたるバビロン軍の攻撃で、主だった指導者たちは殺されたり、捕囚となったりして、国内には下層の農民たちだけが残された。エルサレムは徹底的に破壊され、異民族が侵攻し、バビロン駐留軍の過酷な収奪で生活は疲弊した。当時の嘆きを伝えるものが哀歌だとされている。
-哀歌5:2-18「私たちの嗣業は他国の民のものとなり、家は異邦の民のものとなった。父はなく、私たちは孤児となり、母はやもめとなった・・・首には軛を負わされて追い立てられ、疲れても、憩いはない・・・人妻はシオンで犯され、おとめはユダの町々で犯されている。君侯は敵の手で吊り刑にされ、長老も敬われない。若者は挽き臼を負わされ、子供は薪を負わされてよろめく・・・いかに災いなことか。私たちは罪を犯したのだ。それゆえ、心は病み、この有様に目はかすんでゆく。シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く」。
・それから50年の時が経ち、バビロンに捕囚された民は帰国の道についている。その知らせを聞いてもエルサレムの残された民は喜ばない。彼らには、もはや信仰も希望もない。主は自分たちを捨てられたのだと彼らは思っている。
-イザヤ49:14「シオンは言う。主は私を見捨てられた、私の主は私を忘れられた、と」。
・エルサレムに残された民の状況を知る預言者は彼らに主の言葉を伝える「私があなたを忘れることはない。エルサレムは廃墟となったが、城壁は立て直され、占領者は追い出される。故国を再建する者たちは今エルサレムに向かっている。あなた方は復興する」と。例え人間は不実であっても私が不実であることはない。
-イザヤ49:15-17「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。見よ、私はあなたを私の手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常に私の前にある。あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る」。
・捕囚として散らされた民が再びエルサレムに集められる。そのため、エルサレムの町は人があふれるだろうと。
-イザヤ49:18-19「目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。私は生きている、と主は言われる。あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい、花嫁の帯のように結ぶであろう。破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は、彼らを住まわせるには狭くなる。あなたを征服した者は、遠くへ去った」。
・エルサレムはそれでもつぶやく「私は子を失った。もうあの子たちは戻らない」。しかし彼らは人数を増やしてエルサレムに戻ってくる。滅ぼされた国が、遠い異国に散らされた「残りの者」により再建される。
-イザヤ49:20-21「あなたが失ったと思った子らは、再びあなたの耳に言うであろう『場所が狭すぎます、住む所を与えてください』と。あなたは心に言うであろう『誰がこの子らを産んで私に与えてくれたのか、私は子を失い、もはや子を産めない身で捕らえられ、追放された者なのに、誰がこれらの子を育ててくれたのか。見よ、私はただ一人残されていたのにこの子らはどこにいたのか』と」。
2.故国に向かう捕囚民
・捕囚として連れ去られた人々は1万人であった(列王記下24:14)が、捕囚後に帰国した民は4万人であった(エズラ2:64)。バビロンの捕囚民は捕囚地で人口を増やし、エルサレムに帰還し、残された民とともに国を再建する。
-イザヤ49:22「主なる神はこう言われる『私が国々に向かって手を上げ、諸国の民に向かって旗を揚げると、彼らはあなたの息子たちをふところに抱き、あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る』」。
・エルサレムに残留するバビロン駐留軍は追放され、イスラエルを征服した国が今、イスラエルに仕える者となる。
-イザヤ49:23-26a「私は主であり、私に望みをおく者は恥を受けることがない、・・・主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。私があなたと争う者と争い、私があなたの子らを救う」。
・イザヤ書で見出される神は、隷属している人々を救出し、不正に対して反対し、誤りを正し、創造した故に贖われる方である。イスラエルは捕囚を通して、「私に望みをおく者は恥を受けることがない」と言われ、「私は主、あなたを救い、あなたを贖う」と言われる“生ける神”に出会った。捕囚もその回復もまた救済史の中にある。
-イザヤ49:26b「すべて肉なる者は知るようになる、私は主、あなたを救い、あなたを贖うヤコブの力ある者であることを」。
・捕囚から帰国した民を待っていたのは厳しい現実だった。再建は多くの困難を伴った。その有様はイザヤ56章以下の第三イザヤに描かれている。2007年12月9日説教(イザヤ61:1−9、嘆きから喜びへ)から引用するが、歴史を通して見えてくるのは、困難もまた神の摂理の中にあることだ。
2007年12月9日説教から
−捕囚から50年、バビロンで生活基盤を築いていた民は、今さら廃墟のエルサレムに帰りたくないと言い張っていました。その人たちに預言者は「主が解放して下さったのだ。共にエルサレムに帰ろう、主は荒野をエデンの園に、荒地を主の園にされる」と励ましました(イザヤ51:3)。励まされた人々は帰国の途につきます。紀元前538年のことです。しかし、帰国した民を待っていたのは、厳しい現実でした。
−帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。解放して下さった主に感謝したからです。帰国の翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害しました。また、激しい旱魃がその地を襲い、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
−イスラエルの民も50年ぶりに帰国しました。帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がこの荒野をエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主に対する信仰まで揺らぎ始めていたのです。これに対して、そうではない。問題は主にあるのではなく、あなたがたにあるのだと言って立ち上がった預言者が、第三イザヤと呼ばれる人です。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。
−預言者は人々に悔改めを求めますが、その悔改めは喜びをもたらすと言います。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。主は、困難の中にあるあなたがたを慰めるために私を立てられた、良い知らせを伝えるために私に言葉を与えられたと。預言者は続けます「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(61:3前半)。良い知らせ(福音)は灰(悲しみ)を冠(喜び)に変える。主は悲しんでいるあなた方に、喜びの冠を与えると言っておられる。主はあなた方を通して、この廃墟をエデンの園に変えられる。あなた方こそ「とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す者」なのだ(61:4)。
−あなた方はバビロンで50年にわたる苦難を受けた。それはあなた方を主の民、主の祭司とするためだった、あなた方を通して諸国の人々を解放するためだった。預言者は言います「他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い、異邦の人々があなたたちの畑を耕し、ぶどう畑の手入れをする。あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする」(61:5-6)。あなた方は単に自分の救いを求める者ではなく、神の祝福を隣人に、異邦人に伝える者となるのだ。あなた方が自分のためだけに幸いを求めるから、主は苦難を与えられるのだ。隣人のために幸いを求めてみよ。主はあなた方を豊かに祝福されるだろうと預言者は民を慰めます。
−中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。神殿再建を導いたのは、ダビデの血筋を引くゼルバベルです。人々は、ゼルバベルを王にいだいて国の独立を求めましたが、ペルシャ帝国によって失敗に帰し、イスラエルはその後も国の独立を果たすことが出来ませんでした。しかし、彼らは、捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して民族の同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシャ語に翻訳され、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主に出会うようになります。イザヤは預言しました「彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める」(61:9)。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として異邦人に仕える者になり、やがてはこのユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリスト=救い主が生まれてこられます。