1.主の僕の召命
・イザヤ40〜55章には4つの「主の僕の歌」がある。紀元前540年ごろ、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民から、「主の僕」と呼ばれる預言者が召され、イスラエルの民に「捕囚からの解放」を伝えよと命じられる。
-イザヤ42:1「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」。
・主の僕とは誰か。歴史家は捕囚民の指導者として故国帰還を導いたのは、捕囚されたエホヤキン王の4男セシバザルと推測する。前539年ペルシャ王クロスはバビロンの支配者となり、諸国民に故国への帰還を許す。第一陣としてセシバザルに率いられた民がエルサレムに戻るが、セシバザルはペルシャからの独立・反乱を疑われ、処刑された。このセシバザルこそが第二イザヤのモデルであり、42:1-4はこのセシバザルの召命を歌った詩であると言われる。
-イザヤ42:2-4「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。
・この僕は、主が「支え」「選び」「喜ぶ」者であり、「叫ばず」「呼ばわらず」「傷ついた葦を折らず」「暗くなっていく灯心を消さない」。イスラエルの侵害された領土を回復し、失われた自由を与えてくれる者とされる。マタイは主イエスの活動の中に、「主の僕」の姿を見出す。
-マタイ12:15-21「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、私の選んだ僕。私の心に適った、愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける』」。
・宗教的救済はやがて政治的救済となる。僕は捕囚民をバビロンから解放するための使者として立てられる。
-イザヤ42:6-7「主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。
2.捕囚からの解放
・42章は18節から捕囚からの解放を歌い上げる。最初に第二イザヤは、捕囚となっているイスラエルの民が、「耳が聞こえず」「目が見えない」と批判する。
-イザヤ42:18-20「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。私の僕ほど目の見えない者があろうか。私が遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。私が信任を与えた者ほど目の見えない者、主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」。
・捕囚民の置かれた状況は悲惨なものだった。戦争中に日本に強制連行された朝鮮の人々も同じ状況にあった。
-イザヤ42:22「この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく、奪われても、返せと言う者はない」。
・それは物質以上に精神的に悲惨な環境であった。何故なら、民は何故国が滅ぼされ、自分たちが捕囚されたのかを理解していないからだ。国を滅ぼし、異国の地に連れてきたのが、主であることを、この民は悟らない。
-イザヤ42:24-25「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか。この方に私たちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった。主は燃える怒りを注ぎ出し激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても悟る者はなく、火が自分に燃え移っても気づく者はなかった」。
・しかし裁きは救いのために為される。主はイスラエルを愛する故にこれを裁き、イスラエルを選ぶ故に鍛錬される。そして時が満ちた時、救いのために行動される。
-イザヤ43:1-5「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。・・・恐れるな、私はあなたと共にいる。私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める」。
・私たちの主は、人間の暴虐と悲惨が極限にまで高まった時に、歴史に介入される。ナチスによるユダヤ人虐殺に対してドイツの破壊と言う形で、日本の大陸侵略に対しては国土の滅亡として、ベトナム戦争の悲惨に対してはアメリカを撃たれた。私たちは、歴史に対する主の支配を認めることが出来るのだろうか。