1.アッシリア軍の包囲
・北イスラエル王国は前721年アッシリアによって滅ぼされた。アッシリアはその余勢を駆ってユダに侵攻し、多くの町を占領した。ユダの王ヒゼキヤは貢物を贈って難局を逃れた。紀元前711年ごろである。
−?列王記18:13-14「ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わし『私は過ちを犯しました。どうか私のところから引き揚げてください。私は何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています』と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した」。
・1キカルは34キログラムである。ユダ王国は金1トン、銀10トンの膨大な貢物を納めたが、アッシリアは満足せず、エルサレムを大軍で包囲して降伏を求めた。歴史的には前701年と思われる。
−?列王記18:17「アッシリアの王は、ラキシュからタルタン、ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来て、布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった」。
・この当時のユダ王国には、三つの勢力がしのぎを削っていた。第一は預言者派である。王国の安全は外国との同盟に頼ることではなく、主に頼ることだとする。ヒゼキヤはイザヤの言葉に従い、この方針を取った。
−?列王記18:1-8「ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。・・・ 彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。・・・彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。・・・彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった」。
・他方、アッシリアに対抗するために、メソポタミヤの新興国バビロニアに頼ろうとする人もいたし、エジプトに頼って難局を逃れようとした人たちもいた。歴史的にはヒゼキヤ王は前703年にはバビロニアと、前702年にはエジプトと秘密協定を結んでいる。ヒゼキヤも信仰に徹することは出来なかった。
2.主を嘲るアッシリアの将軍
・アッシリア王の将軍たちはエルサレム城壁の前で、籠城するエルサレムの人々に降伏を呼びかけた。「お前たちは誰を頼りにして私たちに逆らうのか」と将軍たちはユダの人々を嘲笑する。
−?列王記18:19-20「ラブ・シャケは彼らに言った『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。ただ舌先だけの言葉が戦略であり戦力であると言うのか。今お前は誰を頼みにして私に刃向かうのか』」。
・彼は言う「エジプトに頼っても何もならない。彼らは折れかけの葦だ」とアッシリアの将軍は豪語する(18:21)。彼は続ける「主により頼むと言うが、主は何をしてくださるというのか」。軍事力は比較にならない。おごるアッシリア人は言葉を民衆にもわかるヘブル語で述べ続けた。
−?列王記18:28-32「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。王はこう言われる『ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちを私の手から救い出すことはできない。ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる、決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って、主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない』・・・アッシリアの王がこう言われる『私と和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる。やがて私は来て、お前たちをお前たちの地と同じような地、穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブと新鮮な油と蜜の地に連れて行く。こうしてお前たちは命を得、死なずに済む』と。ヒゼキヤの言うことを聞くな。彼は、主は我々を救い出してくださる、と言って、お前たちを惑わしているのだ」。
・アッシリア王センナナケリブが自分こそ神であって、イスラエルの主は単なる部族神に過ぎないと嘲笑する。
−?列王記18:35「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したか。それでも主はエルサレムを私の手から救い出すと言うのか」。
・ユダヤの民はアッシリア軍の包囲の中で、主に頼り続けるかどうかの選択肢を迫られた。私たちの国は憲法9条で「武力は持たない、戦争はしない」と宣言したが、現実の政治の中で揺れ動く。ヒゼキヤは主により頼むといいながら、バビロニアやエジプトに頼った。私たちの国も自衛隊を持ち、アメリカと軍事同盟を結んでいる。*列王記下18章はイザヤ36章に引用されている。列王記を読むことによってイザヤ書も同時に読む構造である。
*列王記下18章の学び・参考資料〜政治の現実の中で私たちは誰に頼るのか〜
1.パウロの言葉「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」を政治的に具体化したものが、日本国憲法です。憲法前文は次のように述べます「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。人間の歴史、人間の本性から冷静に見た時に、この憲法は驚くほど“愚かな”憲法です。「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」ことが出来ないことを、私たちは歴史を通して知っています。それにもかかわらず、この憲法は9条2項で「一切の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と宣言します。それはまるで、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)というキリストの言葉の具体化です。この憲法は歴史的には、日本を占領したアメリカ軍の中の急進的なクリスチャンたちが起草したものであり、そこでは聖書の信仰が基礎になっています。いま憲法改正の動きが出ていますが、それは当然です。非キリスト教国である国の憲法が、聖書の言葉に基づいて書かれていますから、多くの人々が違和感を持っているのです。
2.日本国憲法は人間の目から見たら愚かです。しかし、神の目から見れば、違う視点が与えられます。ダグラス・ラミスという政治学者が『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』という著書の中でこのように述べています「20世紀に国家の交戦権によって殺された人間の数が約1億5千万人であるが、その半分以上が自国の軍隊によって殺されている」。つまり、軍隊は敵を殺す以上に自国民を殺している、軍隊の主要任務は国内の治安維持であり、軍隊が国民を守っているわけではないと彼は言っています。これは真理です。
また、報復がいかに愚かで、何の解決策にもならないことを、私たちはイラク戦争を通じて知りました。2001年9月11日に3000人以上の人がテロ行為で殺されたアメリカは、自国民を殺された報復としてアフガニスタンを攻撃し、イラクに攻め入りました。それから6年、戦争による米軍死者は4000人を超えました。3000人の命の報復に対して、4000人の犠牲を出したのです。イラク人の死者数は6万人を超えました。これだけの犠牲を払っても報復すべきなのか、この戦争は意味があるのか、軍隊とは本当に自国民を守るものなのかという疑問がアメリカ国内でも起きています。
3.カトリック中央協議会は2003年度の声明の中で次のように述べています「日本は憲法9条を持つことによって国を守ることを放棄したのではありません。戦力を持たないという方法で国を守り、武力行使をしないで国際紛争のために働くと誓ったのです」。この62年間、一人の国民も戦争で死なせず、誰も殺さなかったのは、この憲法のおかげです。この憲法は歴史的に見ればアメリカ占領軍の押し付け憲法かもしれません。しかし、62年経ってみて、日本にこの憲法が与えられたことは、神の配慮だと思います。この憲法を持つことを、日本人として、キリスト者として、誇りにしたいと思います。 (2007年8月5日説教から)