1.贖罪日規定
・年1回、7月10日(太陽暦9−10月)が贖罪日と定められた。これは民族の罪の除去のため、断食し、購いの犠牲を捧げる日である。
−レビ記16:29-30「第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。・・・何故なら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。」
・年に1回、この贖罪の日に、大祭司は至聖所に入り、民のために購いの献げ物を行う。
−レビ記16:32-34「贖いの儀式は、聖別の油を注がれ、父の跡を継いで正規の祭司職に任じられた祭司が行うべきである。彼は聖別した亜麻布の衣服を着け、至聖所、臨在の幕屋および祭壇を清め、祭司たちと民の全会衆のために贖いの儀式を行う。」
・最初に雄牛が大祭司とその家族の罪の購いのために、捧げられる。
−レビ記16:11「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。」
・次に、民の償いのために、雄山羊2匹が連れて来られ、1頭は主のための献げ物として、他の1頭はアザゼルのための献げ物として、捧げられる。
−レビ記16:7-8「雄山羊二匹を受け取り、臨在の幕屋の入り口の主の御前に引いて来る。アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。」
・アザゼル(荒野を支配する悪霊)のために捧げられる山羊が、スケープゴートである。元来は、危険な荒野を安全に進むため、群の中で最も無価値な雄山羊を荒野に放ち、野獣がそれを食している間に、危険地帯を抜けるための放牧民の知恵で、それが次第に儀式化していった。
−レビ記16:20-22「至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。」
2.本当に罪を購うものは
・贖罪規定がもたらすものが、罪の汚れとその清めに関する膨大な律法であった。元来は、人々が罪から清められることを目的としたが、慣習化するとともに、律法化、形式化していった。
−イザヤ1:11-14「お前たちの献げる多くのいけにえが、私にとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、私は飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血を私は喜ばない。こうして私の顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、私の庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。・・・それは私にとって重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。」
・何故なら、神が求められるのは、罪赦された感謝の生き方であるのに、人々はそれには無関心であった。
−イザヤ1:15-17「お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いを私の目の前から取り除け。・・・裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」
・イエスの十字架死は、贖罪日のスケープゴートとして捧げられたとヨハネ福音書は理解する。
−ヨハネ11:49-53「その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」
・ヘブル書記者は、イエスの十字架死こそ、贖罪日に捧げられる犠牲の羊だと理解する。
−ヘブル9:12-14「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。何故なら、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者としその身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身を傷のないものとして神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」