1.祭司自身のための購い
・7日間の任職式が終わり、8日目にアロンは祭司としての務めを始める。
―レビ記9:1-2「八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、アロンに言った。無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい。」
・アロンが最初に行うように命じられたのは、自身の罪を購うために、いけにえを捧げることだった。
―レビ記9:7-8「モーセはアロンに言った。祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。・・・アロンは祭壇に進み出て、自分の贖罪の献げ物として若い雄牛を屠った。」
・祭司自身がまず贖罪をささげる。大祭司でさえ、自身のための贖罪を必要とした。弱さを身に負う人間が祭司として立てられるためである。イエスも祭司として立てられるために、苦しみを負われた。
―ヘブル5:2-3「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。」
・人を祭司にするもの、それは自分の罪のために流す涙である。人は悔い改めの涙を流した分だけ、他者のために祈ることが出来る。
―ガラテヤ6:1-2「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」
・自分自身が罪を犯す弱い存在であることを知るから、他者の弱さを憐れむことが出来る。弱さの中にこそ、祭司職は立てられる。
―ユダ1:22-23「疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。ほかの人たちを火の中から引き出して助けなさい。また、ほかの人たちを用心しながら憐れみなさい。肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい。」
2.民のための購い
・自身のための購いを済ました後で、民のための購いの儀式が為される。
―レビ記9:15「その後、アロンは民の献げ物をささげた。すなわち民の贖罪の献げ物として雄山羊を取って屠り、さきに自分のためにしたと同じように、贖罪の儀式を行った。」
・いけにえが捧げられた後、アロンは手を上げて民を祝福した。その言葉は民数記に記されている。
―民数記6:24-26「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」
・儀式が終わると、炎が出て献げ物を焼き尽した。主が彼らの献げ物を受け容れられたからだ。
―レビ記9:23-24「モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。」
・私たちが毎日の生活を礼拝として生きる時、そこに主の現臨があり、神の業が現れる。弟子たちは盲目の人を見て、彼を罪人だとして通り過ぎようとした。しかし、イエスはこの人のために自分は派遣されたと思われた。
―ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』。」
・イエスがこの人をいやされると、この人はイエスの前にひれ伏した。主の現臨を目の前に見たからだ。礼拝とは自分達の全てを献げて、主の現臨を仰ぐ時だ。私たちも主の前にひれ伏す厳粛性を持って礼拝に臨みたい。
―ヨハネ9:37-38「イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』彼が『主よ、信じます』と言って、ひざまずいた。」