1.兄弟たちがエジプトに下る。
・ヨセフの預言した飢饉は世界各地に波及していき、多くの国から人々が穀物を買うためにエジプトを目指した。カナン地方でも食料が不足し、ヤコブは子供たちにエジプトに行って穀物を購入してくるように命じた。
―創世記42:1-3「『あなたがたはなぜ顔を見合わせているのですか。・・・エジプトに穀物があるということだが、あなたがたはそこへ下って行って、そこから、われわれのため穀物を買ってきなさい。そうすれば、われわれは生きながらえて、死を免れるであろう』。そこでヨセフの十人の兄弟は穀物を買うためにエジプトへ下った。」
・しかしベニヤミンは同行させなかった。今はベニヤミンだけが妻ラケルのただ一人の子であった。エジプトに下った兄弟たちは宰相がヨセフとは知らずに彼に拝謁する。ヨセフが見た夢が、このような形で実現した。
―創世記37:5-7「ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らは、ますます彼を憎んだ。ヨセフは彼らに言った『どうぞ私が見た夢を聞いてください。私たちが畑の中で束を結わえていたとき、私の束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、私の束を拝みました』」。
・ヨセフはすぐに兄弟たちがわかったが、彼らに犯した罪を認めさせるために無理難題を押し付ける。
―創世記42:9-16「あなたがたは回し者で、この国のすきをうかがうためにきたのです。・・・末の弟がここにこなければ、あなたがたはここを出ることはできません。あなたがたの一人をやって弟を連れてこさせなさい。それまであなたがたをつないでおいて、あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言葉を試してみよう。」
・次にヨセフは兄弟たちに新しい条件を提示する。それは兄弟たちが罪を認めるかどうかの試みだ。
―創世記42:19-20「『もしあなたがたが真実な者なら、兄弟の一人をあなたがたのいる監禁所に残し、あなたがたは穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。そして末の弟を私のもとに連れてきなさい。』」。
・ここにいたって兄弟たちも過去に犯した罪を認めて悔いる。苦境が人間を悔悟に導いている。
―創世記42:21「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。
・これを聞いてヨセフは隠れて泣いた。しかし、あえて試みを続ける。ヨセフが行った行為は報復ではない。報復は神の業であり、ヨセフの行為は兄弟たちを悔改めに導くための試みの業であった。
―創世記50:19-20「恐れることはいりません。私が神に代ることができましょうか。あなたがたは私に対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」
・聖書は明白に報復を禁じる。報復されるのは神であり、人がそれを行った時、それは神を侮る行為になる。
―ローマ12:19-21「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら『主が言われる。復讐は私のすることである。私自身が報復する』と書いてあるからである。」
2.カナンに帰って
・カナンに帰って彼等は父ヤコブに全てを報告した。ヤコブは末息子を連れてエジプトに戻らなければシメオンは解放されないことを聞き、子供たちを呪う。
―創世記42:36「あなたがたは私に子を失わせた。ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンをも取り去る。これらはみな私の身にふりかかって来るのだ」。
・そしてベニヤミンを連れてエジプトに戻ることを拒絶する。
―創世記42:38「私の子はあなたがたと共に下って行ってはならない。彼の兄は死に、ただ一人彼が残っているのだから。あなたがたの行く道で彼が災に会えば、あなたがたは、白髪の私を悲しんで陰府に下らせるであろう」。
・人はただ目に見える現実を見つめて嘆く。その出来事が祝福の一過程であることは後にならなければわからない。苦難は祝福への途上なのだ。それを知る者だけが苦難を耐えることが出来る。
―創世記45:26-28「(兄弟たちは)彼(父ヤコブ)に言った『ヨセフはなお生きていてエジプト全国のつかさです』。ヤコブは気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったからである。そこで彼らはヨセフが語った言葉を残らず彼に告げた。父ヤコブはヨセフが自分を乗せるために送った車を見て元気づいた。そしてイスラエルは言った『満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。私は死ぬ前に行って彼を見よう』」。
・「神ともにいませば」全ては祝福される。たとえ、牢獄にあってもそうだ。創世記はそれを語り続けている。
―創世記39:23「獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。」