1.十戒の歴史と背景
・十戒は二つの聖書背景を持つ。出エジプト20:2−17と申命記5:6―21である。
・最大の違いは第4戒である。出エジプトは創造論の視点より、申命記は救済論の視点よりの記述である。
―出エジプト20:8-11「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべ
てのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
―申命記5:12-15「安息日を守ってこれを聖別せよ。・・・あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あ
なたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、
あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」
2.序文― 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
・この序文により、十戒が福音、即ち救済史の中の戒めであることが明らかになる。神は「私」として「あなた」である人間に出会う。人格と人格の出会いであること、この出会いにより私を無から造られたかたであることを明示する。同時にあなたの神として自らを低めたもう神、神はその意志を遂行させるものとしてイスラエルを選ばれ、契約のしるしとして、十戒を与えられた。
・肉の支配に苦しむイスラエルを解放するために歴史に介入された神がここにある。イスラエルを通して世界の国民の祝福の基とするために選ばれた神である。
―創世記12:2「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」
3.第一戒―「20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
・倫理とは神との関係、人との関係を律するものである。神への信仰は必ず隣人への倫理へと展開し、具体的実
践の中で生き抜かれる。神への服従が倫理の根本であり、従って第一戒は他の規程にはなりえない。逆に倫理は常
に信仰に基礎を持ち、信仰から出発する。絶対者を持たぬ現代社会の倫理は相対化せざるを得ない。
―マタイ22:37−40「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主
を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のよう
に愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
・原十戒の神は唯一神ではなく、拝一神であり、基本は「妬む神」である。神(エロヒーム)は複数形であり、その中から、主(ヤーウェ)のみを拝する。多神教の世界においては絶対倫理は生まれない。
4.第二戒―「20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。」
・イスラエルは神像を持たない。神はアロンが造った金の子牛を禁止された。エジプトの神は牡牛に乗り移ってそれを住まいとする。聖書は人間が造る諸物(神殿、神像)において、神に出会う信仰を否定する。
―列王記上8:27「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」
・神は言葉と行為において、人間と出会われる。異教の神は人間の構築した場所に現れる。それは人間あっての神である。神は人間の手段を一切不要とされる自由な主体である。人間に依存して自己を啓示されるのではなく、人間が啓示に導かれる。世は被造物を神として拝む。被造物を被造物とせよと言うのが、この第二戒である。
5.第三戒―「20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」
・神は天地を造り、これに名を与えられた。神はイスラエルを選び、なきに等しいものに名を与え、存在を許し、
受け入れられた。イエスは自分の羊の名を呼ぶ。わたしたちは名を持つものとして、神に受け入れられている。
・神の名は神の側から示された。イスラエル人は神の名をみだりに唱えることを畏れて、YAWHの四文字を主(アドナイ)と呼んだ。神の名は「あってあるもの」(黙示録1:8)、これは「在ろうとして在る者」の意である。
・古代においては「名を知るものは、その力をつかむ」と考えられた。神の名を知るならば神を動かし得る、そこから、神名を唱えて神の力を用い人間意志を実現しようとする呪術が生まれる。呪術を否定し、歴史を導く神への信仰が「神の名をみだりに唱える」ことを禁止させる。人間が名づける神ではなく、人間の名を呼ぶ神への服従と信頼が第三戒の精神である。