2026年9月20日 「わが子アブサロムよ」サムエル記下18:19~19:1

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【招詞】

「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。
あなたの記録に
それが載っているではありませんか。
あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」
(詩編56編9節・新共同訳)

第一部 知らせを待つ父――勝利よりも「わが子」を求めて

今朝、私たちに与えられている御言葉は、サムエル記下18章19節から19章1節です。
今日の箇所には、一人の父親が出てきます。
その父親の名前は、ダビデです。
イスラエルの王です。
ゴリアトを倒した勇者です。
サウルに追われても主を信頼し続けた人です。
契約の箱をエルサレムに迎えた時には、主の御前で力の限り踊った人です。
けれども、今日のダビデは、そういう強い王として私たちの前に立ってはいません。
一人の父親として立っています。
しかも、泣いている父親です。
自分に反逆した息子のために泣いている父親です。
アブサロムの反乱は、すでに終わりました。
戦いはダビデ側の勝利です。
国は守られました。
反乱は鎮められました。
王として考えるならば、これは喜ぶべき知らせです。
兵士たちは命をかけて戦いました。
多くの者が傷つき、多くの者が命を失いました。
そしてようやく王国を取り戻した。
「勝ちました、王様。」
そう聞けば、王は立ち上がって喜んでもよかったはずです。
ところが、ダビデは喜べません。
なぜでしょう。
その勝利の中で、一人の人が死んだからです。
アブサロムです。
自分の息子です。
確かにアブサロムは、ただの息子ではありませんでした。
父に反逆した息子です。
父をエルサレムから追い出しました。
王位を奪おうとしました。
国を二つに裂きました。
多くの人を戦争に巻き込みました。
ですから、王として見れば、アブサロムは敵です。
反逆者です。
裁かれて当然の者です。
ところが、父ダビデの心は、そんなに簡単には割り切れません。
敵である。
それは分かっている。
罪を犯した。
それも分かっている。
多くの人を傷つけた。
それも分かっている。
しかし――
それでも、わが子なのです。
今日、この一点を心に留めていただきたいのです。
それでも、「わが子」と呼ぶ愛。
これが今日の御言葉を貫いています。
戦いが始まる前、ダビデは将軍たちに命じていました。
「若者アブサロムを手荒く扱わないでくれ。」
不思議な命令です。
反乱軍の中心人物なのです。
敵の大将なのです。
それなのに、「手荒く扱わないでくれ」と言う。
なぜでしょう。
王だからではありません。
父だからです。
王としてのダビデと、父としてのダビデ。
その二つが、彼の心の中で引き裂かれているのです。
そして私たちは、ここで少し立ち止まりたいと思います。

皆さん。
私たちの人生にも、割り切れない人間関係があるのではないでしょうか。
愛している。
でも傷つけられた。
赦したい。
でも忘れられない。
近づきたい。
でも近づけば、また傷つくかもしれない。
家族だからこそ苦しいことがあります。
親だから苦しい。
子だから苦しい。
夫婦だから苦しい。
兄弟だから苦しい。
他人なら離れれば済むかもしれない。
しかし、愛しているから離れきれない。
ダビデは、まさにその場所に立っています。

戦いが終わり、彼は門の間で知らせを待ちます。
やがて遠くから、一人の使者が走ってきます。
見張りが叫びます。
「一人で走って来る者がいます。」
するとダビデは言います。
「一人ならば、良い知らせを持って来るのだ。」
この言葉が、とても切ないのです。
ダビデは良い知らせを信じたい。
国が勝ったという知らせだけではありません。
もしかしたら――
アブサロムは生きているかもしれない。
もしかしたら――
あの子は助かったかもしれない。
もしかしたら――
もう一度会えるかもしれない。
父の心は、その「もしかしたら」にすがっているのです。
アヒマツが到着します。
「主が王の敵を王の手に渡された」と報告します。
普通の王なら尋ねるでしょう。
「敵軍はどうなった。」
「損害はどれほどだ。」
「反乱は完全に鎮圧されたのか。」
しかしダビデが尋ねたのは、たった一つでした。
「若者アブサロムは無事か。」
王国ではありません。
勝敗でもありません。
アブサロムなのです。
「わたしの息子は生きているのか。」
そのことだけなのです。
アヒマツは答えません。
そして、もう一人の使者、クシュ人がやって来ます。
彼の言葉を聞いた瞬間、ダビデは悟ります。
アブサロムは死んだ。
その瞬間、王国の勝利など、ダビデの心から消えてしまいます。
そして王は、門の上の部屋へ上って行きます。
泣きながら上って行きます。
そして叫びます。
「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子、わたしの息子アブサロムよ。」
何度も「わたしの息子」と呼びます。
反逆者アブサロム、とは呼びません。
敵アブサロム、とも呼びません。
罪人アブサロム、とも呼びません。
「わたしの息子。」
ここなのです。

皆さん。
神様が私たちをご覧になるまなざしにも、これに似たものがあるのではないでしょうか。
私たちは神に背きます。
神から離れます。
神を忘れます。
自分の思いを優先します。
それでも神は、私たちをただ「反逆者」として切り捨てるのではありません。
「帰って来なさい」と呼ばれる。
なぜでしょう。
愛しておられるからです。
今日、最初に心に刻みたいのは、この一点です。
それでも、「わが子」と呼ぶ愛。
ダビデの涙の中に、その愛の影が見えています。
そして、この小さな影の向こうに、やがて私たちは、もっと大きな神の愛を見ることになるのです。

 

第二部 「代わってわたしが死ねばよかった」――届かなかった父の願い

ダビデは泣きながら言いました。
「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子、わたしの息子アブサロムよ。」
そして続けます。
「わたしがお前に代わって死ねばよかった。」
この言葉を、今日は急いで通り過ぎないでいたいと思います。
「わたしがお前に代わって死ねばよかった。」
これは神学の言葉ではありません。
整理された信仰告白でもありません。
父親の叫びです。
もうどうすることもできない現実を前にして、魂の奥から出てきた言葉です。
「できることなら、わたしが死にたかった。」
「お前ではなく、わたしであればよかった。」
しかし、もう遅いのです。
アブサロムは死んでしまいました。
時間を戻すことはできません。
父親が代わって死ぬこともできません。
だから、この言葉は実現しない願いです。
届かなかった愛の願いです。
そして、おそらくこの言葉の中には、ダビデ自身の深い悔いもあったのではないでしょうか。
ダビデの家庭は、ある日突然壊れたわけではありません。
その背後には、長い歴史があります。
ダビデ自身の罪があります。
バト・シェバとの罪。
ウリヤを死に追いやった罪。
そして預言者ナタンから告げられた言葉。
「剣はとこしえにあなたの家から離れない。」
その後、ダビデの家庭には深い傷が重なっていきました。
アムノン。
タマル。
アブサロム。
憎しみ。
復讐。
沈黙。
断絶。
そしてついには、父と息子が敵味方に分かれて戦うところまで来てしまいました。
ですから、ダビデが、
「わたしがお前に代わって死ねばよかった」
と叫んだ時、その胸の中には、
「あの時、もっと違うことができなかったのか。」
「父親として、もっと向き合えなかったのか。」
「わたし自身の罪が、この家をここまで傷つけたのではないか。」
そういう思いもあったかもしれません。
私たちにもありませんか。
「あの時、あんな言い方をしなければよかった。」
「あの時、もっと話を聞けばよかった。」
「あの時、謝っておけばよかった。」
「あの時、抱きしめておけばよかった。」
「あの時、もう一度電話をしておけばよかった。」
人生には、「あの時」があります。
しかし時間は戻りません。
だから苦しいのです。
だから涙が出るのです。
信仰があるからといって、過去が消えるわけではありません。
祈ったからといって、失ったものが全部戻るわけでもありません。
聖書は、その現実をごまかしません。
ダビデにも、「取り戻せないもの」がありました。
しかし皆さん。

ここからが福音なのです。
ダビデは言いました。
「わたしがお前に代わって死ねばよかった。」
しかし、できませんでした。
ところが聖書には、この願いを本当に実行された方が出てきます。
イエス・キリストです。
ダビデは、
「代わって死ねばよかった」
と泣きました。
キリストは、
私たちに代わって、本当に死なれました。
ここには大きな違いがあります。
ダビデの愛は深い。
しかし救うことができない。
泣くことはできる。
愛することはできる。
「代わりたい」と願うこともできる。
しかし、死んだ息子を救い出すことはできません。
人間の愛には限界があります。
どれほど愛していても、できないことがあります。
どれほど祈っても、自分では救えない人がいます。
どれほど抱きしめたくても、届かない場所があります。
でも神の愛は、そこで終わらなかったのです。
神は御子を送られました。
そして御子は、罪人である私たちの場所に立たれました。
私たちが受けるべきものを担われました。
十字架にかかられました。
ここに、今日の一点があります。
それでも、「わが子」と呼ぶ愛。
私たちが立派だったからではありません。
神に従い続けたからでもありません。
神を一度も裏切らなかったからでもありません。
むしろ私たちは、神から離れた者でした。
自分の道を歩んだ者でした。
それでも神は、見捨てなかった。
だから御子が来られたのです。
そして十字架で、ダビデにはできなかったことが起こった。
「代わって死ねばよかった」ではありません。
「あなたに代わって、わたしが死ぬ。」
これが十字架です。

皆さん。
私たちの信仰は、ここに立っています。
私たちは、自分の過去を全部直してから神のところへ行くのではありません。
罪を全部片づけてから帰るのでもありません。
涙を止めてからでもありません。
後悔をなくしてからでもありません。
そのまま帰るのです。
なぜなら、神の側からすでに御子が来てくださったからです。
そして今日の招詞が響きます。
「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」
神は涙を捨てられません。
誰にも見られなかった涙。
夜、一人で流した涙。
家族のことで流した涙。
自分の罪を悔いて流した涙。
取り返せないことを思って流した涙。
神は知っておられます。
だから、泣いてよいのです。
そして泣きながらでも、十字架を見上げてよいのです。
そこには、
「それでも、あなたはわたしの愛する者だ」
という神の答えがあるからです。

 

第三部 涙を隠さなくてよい――悲しみのただ中におられる神

ダビデは、知らせを聞くと、門の上の部屋へ上って行きました。
そして泣きました。
王です。
多くの人の前に立つ人です。
国を背負っている人です。
本当なら、弱いところを見せたくなかったかもしれません。
しかし彼は泣きました。
「わたしの息子アブサロムよ。」
何度も何度も呼びながら泣きました。
聖書は、その涙を隠しません。
ここには大切なことがあります。
信仰とは、泣かないことではありません。
悲しみを感じないことでもありません。
「神様を信じていますから大丈夫です」と、何でも笑顔で受け止めることでもありません。
つらい時には、つらい。
悲しい時には、悲しい。
会いたい人には、会いたい。
失ったものは、惜しい。
それでよいのです。
聖書の信仰者たちは泣いています。
ダビデも泣きました。
エレミヤも泣きました。
詩編の作者たちも泣きました。
そして何より、イエス様も泣かれました。
ラザロが死んだ時、ヨハネによる福音書は短く記します。
「イエスは涙を流された。」
主イエスは、復活させる力を持っておられました。
このあと何が起こるかもご存じでした。
それでも泣かれたのです。
なぜでしょう。
愛しておられたからです。
神の愛は、悲しみを遠くから眺める愛ではありません。
泣いている人の隣まで来る愛です。
ですから皆さん。
私たちが涙を流す時、
「神様、どこにおられるのですか」
と思うことがあります。
しかし、もしかすると神は、私たちが思っているよりずっと近くにおられるのです。
答えを説明するためではなく、
まず、その涙のそばにおられる。
私たちは、悲しんでいる人に何か言わなければならないと思うことがあります。
「元気を出して。」
「神様には計画があります。」
「きっと意味があります。」
もちろん、そういう言葉が慰めになる時もあります。
しかし、言葉が重すぎる時もあります。
悲しみのただ中にいる人には、説明よりも、ただ一緒にいてくれる人が必要な時があります。
イエス様は、まず泣かれました。
そこに牧会の心があります。
そして、そこに神の心があります。
今日の招詞をもう一度聞きましょう。
「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」
なんと不思議な表現でしょう。
涙は普通、流れ落ちて消えてしまいます。
拭けばなくなります。
乾けば跡も見えなくなります。
しかし詩編の作者は言います。

神様。
この涙を集めてください。
一滴も無駄にしないでください。
そして神は、それを覚えてくださる方だというのです。
皆さんがこれまで流した涙も、神はご存じです。
誰にも話さなかった涙もあります。
人前では笑っていたけれど、一人になった時に流した涙もあるでしょう。
家族のための涙。
子どものための涙。
親のための涙。
教会のための涙。
自分自身の弱さのための涙。神様にしか知られていない涙があります。
それを神は忘れておられません。
そしてここでも、今日の一点に戻ります。
それでも、「わが子」と呼ぶ愛。

なぜ神は涙を覚えてくださるのでしょう。
私たちを愛しておられるからです。
私たちの痛みが、神にとって無関係ではないからです。
子どもが泣いている時、親はその泣き声を聞き分けます。
大勢の声の中でも、自分の子の声が分かることがあります。
同じように神は、私たちの声を知っておられます。
私たちの涙をご存じです。
だから、祈れない時には、
「神様、つらいです」
それだけでもよいのです。
言葉にならなければ、泣くだけでもよい。
神は聞いておられます。
ダビデの「アブサロムよ」という叫びも聞いておられました。
私たちの叫びも聞いておられます。
そして十字架の主は、その痛みを知らない方ではありません。
捨てられる痛み。
裏切られる痛み。
愛する者に届かない痛み。
死別の痛み。
死そのものの恐ろしさ。
主はその中を通られました。
だから、私たちは悲しみの中で一人ではありません。
信仰とは、
「もう悲しくありません」
と言うことではありません。
信仰とは、
「悲しい。しかし、この悲しみの中にも主がおられる」
と信じることです。
泣きながらでも、主の御手を求めることです。
そしてその時、神は私たちに言われるのです。
「わたしはあなたの涙を知っている。」
「わたしはあなたを忘れていない。」
「あなたは、わたしにとって大切な者だ。」
それでも、「わが子」と呼ぶ愛。
その愛が、涙の中の私たちを包んでいるのです。

 

第四部 涙を抱えたまま立ち上がる――十字架の先にある希望

しかし、この物語には続きがあります。
ダビデは泣きました。
深く泣きました。
「わたしの息子アブサロムよ。」
その声は、兵士たちのところにまで届いていきました。
そして勝利の日が、悲しみの日になってしまいます。
兵士たちは勝って帰ってきたのに、まるで戦いに負けた者のように、ひっそり町へ入ってきます。
彼らにも痛みがありました。
彼らも命をかけて戦ったのです。
家族を残して戦場へ行った人もいたでしょう。
仲間を失った人もいたでしょう。
彼らはダビデを守るために戦ったのです。
だからヨアブは、厳しい言葉でダビデに迫ります。
このままではいけない。
王よ、立ってください。
民の前に出てください。
ダビデにとって、それは簡単ではなかったでしょう。
息子を失ったばかりです。
まだ泣いていたい。
一人でいたい。
何もしたくない。
それでも、彼にはまだ生きる務めがありました。
ここに、悲しみを通った人の信仰があります。
忘れるのではありません。
無理に元気になるのでもありません。
傷がなくなるわけでもありません。
涙を抱えたまま、もう一度立つのです。
これが大切です。
私たちは時々、「立ち直る」という言葉を、元通りになることだと思っています。
しかし、大きな悲しみを経験すると、元通りにはならないことがあります。
以前と同じ自分には戻れない。
失った人が戻ってくるわけでもない。
傷跡が完全になくなるわけでもない。
それでも、人は歩くことができます。
傷を持ったまま。
涙の記憶を持ったまま。
神に支えられて、一歩ずつ歩くことができる。
それが聖書の希望なのではないでしょうか。
詩編126編には、
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」
とあります。
「涙がなくなったら種を蒔きなさい」とは書かれていません。
涙と共にです。
泣きながら蒔くのです。
悲しみながら歩くのです。
答えが分からないまま祈るのです。
そして神は、その涙の種を無駄にはなさらない。
いつか、私たちには見えなかった仕方で、実を結ばせてくださる。
それが希望です。
しかし、この希望をもっと確かなものにする方がおられます。
イエス・キリストです。
ダビデは言いました。
「わたしがお前に代わって死ねばよかった。」
しかしできませんでした。
けれどキリストは、私たちに代わって死なれました。
そして、それだけではありません。
三日目によみがえられました。
だからキリスト教の希望は、
「いつか悲しみを忘れられるでしょう」
という希望ではありません。
死そのものが最後ではないという希望です。
涙そのものが最後ではないという希望です。
黙示録には、神が人々の目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる日が約束されています。
今は泣きます。
今は別れがあります。
今は理解できないことがあります。
今は「なぜですか」としか言えないことがあります。
しかし、最後の言葉は涙ではありません。
最後の言葉は死でもありません。
最後の言葉は神の命です。
復活です。
だから私たちは、泣きながらでも歩けます。
ここで最後に、もう一度だけ、今日の一点を心に刻みたいと思います。
それでも、「わが子」と呼ぶ愛。
アブサロムは父に背きました。
それでもダビデは、
「わたしの息子」
と呼びました。
私たちも神に背きました。
神を忘れました。
神を悲しませました。
自分の道を歩きました。
しかし神は、私たちを見捨てることを望まれませんでした。
そのために御子を送られました。
ダビデは、
「代わって死ねばよかった」
と言いました。
しかし神の御子は、
「あなたに代わって、わたしが命を与える」
と十字架へ向かわれたのです。
ここに福音があります。
皆さん。
もし今、心の中にアブサロムのような人がいるなら。
愛しているけれど、どうすることもできない人がいるなら。
その人を神の御手に委ねてください。
もし過去を思い出して、
「あの時こうしていれば」
と自分を責めているなら、
その後悔も十字架のもとへ持って行ってください。
もし今、涙の中にいるなら、
その涙を隠さなくてよいのです。
神は知っておられます。
神は数えておられます。
神は忘れておられません。
そして、あなた自身についても覚えてください。
あなたがどれほど弱くても。
失敗しても。
迷っても。
主から遠く離れたと思う時でさえ。
十字架の神は、あなたを見ておられます。
そして呼んでおられます。
「帰って来なさい。」
なぜなら、それでも、あなたはわたしの愛する者だから。
「わが子アブサロムよ。」
この父の涙の向こうに、私たちはもっと深い神の愛を見るのです。
失われた者を探す愛。
背いた者をなお求める愛。
涙を数える愛。
そしてついには、御子の命を与えてまで、私たちを取り戻そうとなさる愛です。
だから私たちは、泣いてよい。
しかし、絶望しなくてよい。
涙を抱えたままでよい。
しかし、一人で歩かなくてよい。
主が共におられるからです。
そしていつの日か、神ご自身が私たちの目から涙をぬぐってくださる。
その日を待ち望みながら、
今日も、
泣きながらでも、
一歩ずつ、
主と共に歩んでまいりましょう。

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