江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年7月19日「まことの王」(サムエル上8:1~22)

投稿日:2026年7月20日 更新日:

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【招詞】

「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。」(詩編103:8)

 

第一部 人の王を求める民

 

サムエルが年をとり、息子たちをイスラエルの裁き人としたころ、人々は大きな不安を抱いていました。

「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」(サムエル上8:5)

その声は、老預言者への不満であると同時に、国全体の焦燥の叫びでもありました。

人々は言いました――「今こそ、わたしたちのために王を立ててください。すべての国民のように、わたしたちを裁く王を。」

 

ここで民が求めていたのは、単なる統治者ではありません。

彼らは、見える“安定”を求めていました。

周囲の国々にはそれぞれの王がいて、軍を率い、秩序を保ち、国を守っている。

しかしイスラエルには、そうした「目に見える力」がなかった。

神が王であると教えられながらも、その神は目に見えず、声もときに聞こえない。

人々は、不安に駆られました。

――「わたしたちも他の国々のようになりたい。」

 

これは、私たちの心にも響く叫びです。

見えない神よりも、見える仕組みを。

信仰よりも、確実な力を。

そう願ってしまうのが人間の弱さです。

信仰とは、不確かなものの中に確かさを見出す歩みですが、

私たちはいつも「見える保証」を求めたくなる。

神に支えられているはずなのに、

“他の人のように”生きたいという思いが、心を揺さぶるのです。

 

サムエルはこの要求を聞き、深く悲しみました。

彼はただの政治家ではなく、神と民の間に立つ者です。

その心にあったのは、自分の老いの痛みよりも、

民が神を拒んでしまったことへの悲しみでした。

聖書はこう語ります。

「サムエルの目には悪と映った。」(8:6)

けれど、サムエルはその悲しみを人にぶつけることなく、

静かに主に祈りました。

 

このとき、主は答えられます。

「民の言うことすべてに従いなさい。彼らが退けたのはあなたではなく、わたしである。」(8:7)

――神の声は、驚くほど穏やかです。

拒まれても、神は怒鳴らない。

ただ、「彼らが退けたのはあなたではなく、わたしだ」と告げられる。

そこには、人の自由を尊重しながらも、痛みを抱く神の姿があります。

 

神は民を見放しません。

むしろ、民の誤りの中にさえ、導きの道を備えておられます。

神はサムエルに言われました。

「彼らに警告し、王の支配がどういうものかをよく知らせなさい。」(8:9)

神は、王を立てることそのものを禁じはしませんでした。

しかし、“人の王”を選ぶことがどういう結果をもたらすのかを、

民に理解させようとされたのです。

 

ここには、神の深い忍耐があります。

神は、無理やり従わせることはなさいません。

人に選ばせ、その選びの中から、痛みを通して悟らせようとされるのです。

神は、拒まれてもなお、民と共に歩む方。

その愛の深さこそが、まことの主権のしるしなのです。

 

私たちもまた、同じように問われています。

「誰を王としているのか。」

自分の人生の王座に座っているのは、誰でしょうか。

神よりも、自分の計画や常識や欲望が“王”となってはいないでしょうか。

神を信じているつもりでも、

実際には自分の望みを優先し、神を補助的な存在にしてしまう。

それは、イスラエルの民と同じ姿です。

 

信仰の危機は、信仰が消えるときではなく、

信仰が“他のものに似せられてしまう”ときに起こります。

イスラエルが「他の国々のように」と願ったとき、

それは神の民であることを手放す瞬間でした。

神はその願いを悲しみながらも受け入れ、

そこから新しい導きを始めていかれます。

 

「まことの王」は、人の王ではありません。

しかし、人が人の王を求めるときにも、

神はその歩みの中に立ち続けてくださる。

私たちの選びが間違っても、

神はその間違いのただ中から、

もう一度、真の王のもとへと導き返してくださるのです。

 

第二部 王を求める心の裏側

 

神はサムエルに言われました。

「彼らの言うことをすべて聞き入れなさい。」(8:7)

それは一見、民のわがままを容認するような言葉にも聞こえます。

しかし神は、民の願いをただ受け入れたのではなく、

その願いの奥に潜む“心のあり方”を暴き出そうとしておられました。

 

民は言いました――「わたしたちを裁く王を立ててください。」

その言葉の裏には、長い不安の歴史があります。

士師の時代、イスラエルには一貫した統治者がいませんでした。

敵が攻めてくれば、神は士師を立てて助けてくださった。

けれど、それは常に一時的で、再び平和になると、人々は神を忘れました。

危機のたびに神を思い出し、危機が去ると神を遠ざける。

その繰り返しの中で、民はようやくこう思うようになったのです――

「もう神に頼る形ではなく、人間の仕組みで安定したい。」

 

信仰の危機は、神の沈黙よりも、

人の“不安”から始まります。

不安は、私たちに「目に見える確かさ」を求めさせます。

神に委ねるよりも、自分で操りたい。

信頼よりも、管理を選びたい。

その思いが強くなるとき、神の支配よりも人の支配を望むようになります。

 

サムエルは、神の指示を受けて人々に告げます。

「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。」(8:11)

そして彼は語ります――

王はあなたたちの息子を奪い、戦車を駆り、兵士にする。

娘たちを香料づくりや料理人に仕える者にする。

最良の畑や葡萄畑を取り上げ、

その収穫の十分の一を徴収し、

あなたたちはその王の僕となるだろう、と。

 

サムエルはその先にある現実を見せました。

「王を求める」という願いが、

やがて「支配される」現実を招くことを。

それは、神に従うことをやめた民が、

結局は別の“支配”のもとに入ることを意味していました。

 

けれど、民はその警告を聞いてもなお言いました。

「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民

と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」(8:19–20)

この言葉は、どこか切実です。

民は不信仰からだけでなく、

恐れと不安から王を求めていました。

神の導きが見えなくなったとき、

彼らは“安心をくれる存在”を探したのです。

信仰の危機とは、神を否定することではなく、

神よりも安心できるものを優先してしまうこと。

そこに、私たちの姿も重なります。

 

私たちも同じように、“目に見える王”を求めてしまいます。

それは人の評価かもしれません。

お金や地位かもしれません。

または、自分自身の力や計画かもしれません。

それらに頼ることで、心の平安を得ようとする。

けれど、それは一時の安定にすぎず、

やがてそれらが私たちを支配するようになります。

 

神はサムエルを通して警告されました。

――その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえにに泣き叫ぶ。

しかし主は、あなたたちに答えてはくださらない。(8:18)

この言葉は脅しではなく、

「見失ってはならない中心がある」という神の愛の警鐘です。

神は、民が倒れるのをただ見ておられる方ではありません。

その痛みを共に背負い、再び立ち上がる道を備えておられる。

それが「まことの王」としての神の姿です。

 

私たちの信仰の旅路にも、

“他の国々のように”なりたいという誘惑があります。

神を信じながらも、

世の常識や流れに合わせて歩きたいと思う時があります。

けれど、神は静かに問われます。

「あなたの王は、だれなのか。」

その問いの前に立つとき、

私たちはもう一度、神の支配のやさしさと、

人の支配の重さの違いを思い知らされるのです。

 

――神の支配は束縛ではなく、自由です。

人の支配は力によって服従させるけれど、

神の支配は愛によって招くのです。

その招きに応えるとき、

私たちは不安からではなく、信頼から歩み始めることができます。

 

第三部 退けられても共におられる王

 

民が王を求める声をあげたとき、サムエルの心は深く痛みました。

彼はそれを、神への裏切りと感じたからです。

けれど、主はその痛みを静かに受け止められました。

「彼らが退けたのはあなたではなく、わたしである。」(8:7)

この言葉には、神の深い悲しみがこもっています。

創造の初めから、人は神を王としていただいてきました。

それなのに、人は目に見える力に頼りたくなる。

神の支配は目に見えず、聞こえにくく、触れることもできません。

だから人は、「他の国々のように」という願いを口にしてしまうのです。

 

それでも神は、人の不忠実をも包み込む方です。

怒りよりも先に、憐れみをもって応えられます。

「彼らの言うことを聞き入れ、王を立てなさい。」

神は、民の願いを拒まず、その中に救いの道を織り込まれました。

やがて王国が立ち、ダビデという王が現れ、

その血筋からメシア――イエス・キリストが誕生するのです。

人の過ちの中から、神は救いの歴史を編まれました。

神の主権とは、力で支配することではなく、

拒まれても愛し抜く力なのです。

 

このときの神の姿は、

後にイエス・キリストの姿と重なります。

人々はイエスを王として迎えながら、

やがて「十字架につけよ」と叫びました。

拒まれてもなお、主は沈黙のうちに愛を貫かれた。

それは、サムエル記の神の沈黙の延長線上にある愛です。

人の王は命令し、力で支配します。

けれど神の王は、仕え、赦し、涙を流しながら治められます。

この違いこそが、まことの王のしるしなのです。

 

ここで、今日の招詞を心に留めましょう。

 

――「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。」(詩編103:8)

 

この御言葉は、まさにサムエル記の神の姿を映しています。

民が背を向けても、神は怒りに遅く、慈しみに満ちておられる。

拒まれた神がなお民の声を聞き、

彼らの選びの中に導きを備えられる。

それが神の憐れみのかたちです。

 

サムエルは神の命に従い、民のもとへ戻りました。

彼は、神の言葉をそのまま伝えました。

「あなたたちは、自分で選んだ王の下で叫ぶようになるだろう。

しかし主は、その日にはあなたたちに答えられない。」(8:18)

その言葉には、裁きと同時に、痛みと愛が混じっていました。

神は「答えない」と言われましたが、

それでも完全に見放すことはありません。

後にイスラエルが苦しみの中で再び神に立ち返るとき、

主はその声を聞き、赦し、再び導かれます。

神は、沈黙の中にあっても、

民を見捨てずにおられる王なのです。

 

人の王は、力によって人を守る。

しかし神の王は、愛によって人を生かす。

その愛は、拒まれても折れず、

遠ざけられても消えません。

神は、民が誤っても、その中に希望の道を描かれます。

それが「まことの王」としての神のご支配です。

 

私たちもまた、ときに神を退けてしまう者です。

自分の判断を優先し、

自分で自分を守ろうとする。

けれど神は、そのような私たちの中にも働かれます。

私たちが倒れたところに、

新しい導きを与えてくださる。

神の王権とは、私たちを罰する支配ではなく、

やり直しの機会をくださる愛の支配です。

 

「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。」

この一節は、どの時代にも響く神の自己紹介のような言葉です。

イスラエルの民が自らの王を求めたときも、

神はなお、この御言葉のとおりにおられました。

拒まれても、なお愛し、

離れても、なお導く。

――それが、私たちの「まことの王」なのです。

 

第四部 まことの王に立ち返る道

 

サムエルが民の言葉をすべて聞き終えたとき、

彼はそのまま主に報告しました。

「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」(8:22)

それがこの章の結末です。

――神は、民の願いを退けられませんでした。

拒まれた神が、なおその願いを受け入れられた。

それは屈服ではなく、愛による選びです。

人が誤る自由を神は尊重され、

その誤りの中からも、やがて救いの道を生み出されます。

 

イスラエルの歴史を見ると、

人の王たちは必ずしも民を幸せにしたわけではありませんでした。

サウルは嫉妬にとらわれ、

ダビデは罪を犯し、

ソロモンは富と権力に溺れました。

王たちが輝いて見えるときでさえ、

その影には人の弱さと限界がありました。

けれど、その不完全な歴史を貫いて、

神はひとつの約束を保ち続けておられました。

――「わたしはあなたの王である。」

 

神は、人の王の失敗を通しても、

ご自身の真実を示されました。

それがやがて、ダビデの子孫として来られたイエス・キリストです。

彼こそ、永遠の王、まことの王です。

イエスは権力によってではなく、

十字架によって支配されました。

それは、この上ない逆説です。

誰よりも低くなられた方が、

すべての上に立たれた。

血と涙と赦しによって治める王。

それが、神の支配のかたちでした。

 

サムエル記のこの章は、

人の王を求める民の愚かさを描きながら、

その先に、神の救いの深さを指し示しています。

神は見放さず、拒まれても歩み続ける。

そして、ついに人の肉を取り、

まことの王として私たちの間に立たれた。

人の歴史の弱さを抱えながら、

そのただ中で神の国を開かれたのです。

 

私たちもまた、イスラエルの民と同じように、

「他の国々のように」なりたいという思いに揺れます。

他人のように成功したい。

周りのように安定したい。

そう願うとき、知らず知らずのうちに、

神を王座から降ろして、自分がそこに座ってしまう。

けれど、まことの王は、その私たちの中にも訪れます。

静かに扉を叩き、

「わたしに戻りなさい」と語られます。

 

信仰とは、神を王座にお迎えし直すことです。

それは、一度限りの決断ではなく、

毎日の歩みの中で繰り返される小さな選びです。

誰を信頼するか。

何に依り頼むか。

どんなときも、

その問いの前で私たちは試されます。

けれど、神はいつでもそこにおられます。

王座を空けて待っておられるのです。

 

「まことの王」とは、

恐れで支配する王ではなく、

愛で導く王です。

人の王は、従わぬ者を罰します。

しかし、神の王は、従わぬ者をも赦し、

その心をもう一度抱き寄せます。

神の王国は、力の頂点に立つのではなく、

痛みの底から広がっていく。

だからこそ、その支配は永遠なのです。

 

私たちはこの神の前に立ち、

日々問いかけられています。

――「あなたの王はだれか。」

もし、人生の中心に不安があるなら、

その場所にもう一度、神をお迎えしましょう。

神の支配のもとで生きるとき、

私たちの心は自由になります。

まことの王のもとに立ち返るとき、

私たちは恐れではなく、平安によって歩む者とされるのです。

 

イスラエルの民が求めた王は、

神にとって悲しい願いでした。

けれど、その悲しみの中から、

神は新しい約束を紡ぎ出されました。

「人の望みは誤っても、神の愛は誤らない。」

それがこの章の結末に響く福音です。

そして今日もまた、

まことの王は、静かに私たちを呼んでおられます。

――「わたしのもとに帰りなさい。

あなたの王は、わたしである。」

 

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