招詞 イザヤ書 55章10~11節
「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
序
・皆さん、おはようございます。本日の聖書箇所、テモテへの手紙二4章1~8節。
題は「折が良くても悪くても」。
この言葉は短い。けれども、とても重く、また深い慰めに満ちた言葉です。
神の言葉に立ち続けなさいという招きだからです。
しかもこれは、ただ「がんばりなさい」と背中を押すだけの言葉ではありません。
主がご自分の言葉によって、私たちを支え、導き、立たせてくださるからこそ語られる招きです。
・この手紙は、使徒パウロが地上の歩みの終わりを前にして、愛するテモテに書き送った、
いわば最後の勧めのような、遺言のような手紙です。
パウロは自分の命が終わりに近づいていることを知っていました。ですから、ここに書かれている言葉は、思いつきでも、その場しのぎでもありません。本当に大切なことだけが、祈りの中で、厳か(おごそか)に語られています。人は人生の終わりに近づくほど、枝葉ではなく、根の部分を語るようになる。という事なのでしょう。
・パウロが最後に握りしめていたもの、それは福音であり、御言葉であり、主イエス・キリストへの信頼でした。私たちもまた、「折が良い」と思える日ばかりを生きているのではありません。
祈りがなかなか・かなえられないとき、体調がすぐれないとき、人間関係が難しいとき、社会の流れが信仰に逆行するように見えるとき、自分の心が弱っているとき、もあります。
また、教会に仕えること、家族の中で信仰を証しすること、職場や地域で誠実に生きることが、簡単ではないと感じる日もあります。そのような私たちに対して、今日の御言葉は、恐れをあおるためではなく、主の前に立ち返らせ、もう一度足もとを固めるために与えられています。
聖霊降臨節のこの時期、教会は、聖霊によって福音を託され、世に遣わされていることを覚えます。
その意味でも今日の御言葉は、パウロからテモテに個人的に送られた励ましとしてだけでなく、教会全体に向けられた励ましとして、また、私たちにも向けられている励ましとしても、たいへんふさわしいものと言えます。
1.御言葉を宣べ伝える使命――私たちの中心は神の言葉
・1節でパウロは、「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳か(おごそか)に命じます。」と語ります。これは非常に大きな視野です。
目の前の事情だけを見て語っているのではありません。神の御前、そして再び来られるキリストの御前で語っているのです。つまり、御言葉を伝えることは、人間の気分やその場の空気に従う仕事ではなく、神の前に置かれた務めだと語っているのです。・そして2節で、パウロははっきりと言います。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。
忍耐強く、十分に教えるのです。」ここで中心にあるのは、「御言葉を宣べ伝えなさい」という命令です。
パウロは、「自分の考えを語りなさい」とは言いませんでした。
「人々に好かれる話をしなさい」とも言いませんでした。
「その場や時代に合わせて無難にまとめなさい」とも言いませんでした。中心は、いつでも御言葉です。
「折が良くても悪くても」とは、都合が良くても悪くても、歓迎されてもされなくても、自分が元気でも疲れていても、周囲が耳を傾けても傾けなくても、ということです。
つまり、御言葉に仕える歩みは、環境や状況任せではないということです。
私たちはつい、「落ち着いたら」「状況が整ったら」「もっと自信がついたら」と考えがちです。
しかし信仰の歩みには、いつも完全な準備が整った瞬間ばかりがあるわけではありません。
むしろ、弱さを抱えたまま、それでも主に従うところに、本当の信仰があります。
たとえば、朝から心が重くて、祈りの言葉も出てこない日があります。
家族のことが気になって落ち着かない日もあります。
あるいは、教会に来ていても、心ここにあらずという日もあるかもしれません。
それでも、そういう日にこそ、主は「あなたはここに来てよい」「わたしの言葉を聞きなさい」と語ってくださるのです。
・ここで「とがめ、戒め、励ましなさい」とあります。けれどもこれは、人をきつく責め立てるということではありません。最後に「忍耐強く、十分に教えるのです」と続いていることが大切です。聖書が示す働きは、相手を打ちのめすことではなく、真理の光の中へ導くことです。
間違っているところは間違っていると示しつつ、それでもなお、主の恵みの中に帰る道を開くのです。
福音の語り方は、厳しさだけでもなく、甘さだけでもありません。
真理と愛が一つになった語り方だと聖書は語るのです。
・なぜ御言葉がそんなに大切なのでしょうか。それは、御言葉が私たちを救いへ導き、迷いから引き戻し、弱った心を立て上げるからです。人の言葉は、その場では力があるように見えても、やがて薄れていきます。しかし神の言葉は、時代を超えて人を生かします。先程、招詞としてお聴きしたイザヤ書55章が語るように、神の言葉はむなしく戻ることがありません。私たちの心が固く感じる日も、すぐに変化が見えない日も、主の言葉は静かに、しかし確かに働いています。
私たちはしばしば、すぐに結果が見えないと不安になります。
けれども、畑に蒔かれた種が、見えない土の中で芽を出す備えをしているように、御言葉もまた、見えないところで私たちの心を耕しているのです。
礼拝で聴いた一つの言葉が、数日後に思い起こされて支えになることがあります。
若い頃に聞いた聖書の言葉が、時間が経ってから人生を支えることもあります。
私たちが語る前に、神がまず語っていてくださる。
私たちが立てない日にも、神の言葉のほうが私たちを立たせてくださる。
ここに、説教する者を支える希望があり、また御言葉を聴く者の慰めがあります。
説教者が自分の力や成果ではなく、神の御言葉そのものが働くことに希望があります。
ですから私であっても神の御言葉を語ることが出来る。と語ってくださるのです。
2.健全な教えに耳を傾ける――都合のよい言葉ではなく、命の言葉を聞く
・3節と4節で、パウロは厳しい現実を語ります。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」
これは、昔の時代だけの話ではありません。むしろ、今の時代にもそのまま当てはまるように感じます。
私たちは、自分に都合のよい言葉を求めやすい者です。自分が変わらなくてもよいと言ってくれる言葉、自分の願いだけを肯定してくれる言葉、悔い改めを求めない言葉、十字架の重みを抜きにした慰めの言葉を好みやすいのです。けれども、そのような言葉は、耳には優しくても、魂を生かすとは限りません。
病院の医者が、病気の人に本当の診断を伝えず、ただ安心させるだけでは治療にならないのと同じです。
真理は時に痛みを伴います。しかし、その痛みは、傷つけるための痛みではなく、癒やしへ向かうための痛みです。
・「健全な教え」とは、単に正しい知識が並んでいるという意味ではありません。
健全とは、命を保つということです。福音は、私たちの罪を見えなくする教えではなく、罪を明るみに出し、それでもなおキリストの赦しへと導く教えです。福音は、私たちの弱さを否定するのではなく、弱さの中で主の力が働くことを知らせます。福音は、「あなたはそのままで十分だから何も変わらなくてよい」と語るのではなく、「あなたは神に愛されている。だから新しくされて生きるのです。」と語るのです。ですから大切なのは、私たちが「聞きたい言葉」を探すのではなく、「主が今日、私に語っておられる言葉」を聞くことです。礼拝とは、自分を満足させる時間ではなく、神の前で姿勢を正される時間です。聖書を開くとき、「今日、心地よい言葉をください」と願うのではなく、「主よ、わたしを正し、慰め、導いてください」と祈る者でありたいと思うのです。
そのとき、御言葉は私たちの好みに合わせて小さくなるのではなく、私たちの心を主のかたちへと広げてくださいます。
たとえば、私たちは人から認められなかった日に、「自分には価値がない」と感じてしまうことがあります。
失敗した日に、「やはり自分はだめだ」と決めつけてしまうこともあります。
しかし主の言葉は、そのような私たちに向かって、あなたの価値は人の評価だけで決まるのではない、と語ります。悔い改めるべきところは悔い改めつつも、それでもなお、神に愛されている者として立ち上がりなさい、と語ってくださるのです。
・5節でパウロは言います。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」
ここには、時代の流れに飲み込まれない信仰者の姿があります。どんな場合にも身を慎むとは、心を見失わず、主の前に立ち続けることです。
苦しみを耐え忍ぶとは、苦しみがないことを信仰のしるしと考えないことです。
福音宣教者の仕事に励むとは、特別な立場の人だけのことではなく、与えられた場所でキリストを証しして生きることです。自分の務めを果たすとは、ほかの人の役割をうらやむのではなく、自分に託された小さく見える忠実を大切にすることです。ときに私たちは、自分には大した働きができないと思います。けれども主は、大きく見える働きだけでなく、祈ること、耳を傾けること、慰めの言葉を一つ渡すこと、誠実に日々を生きることをも尊く用いてくださいます。
聖霊降臨節とは、そうした日ごとの証しの中で、教会が生かされていることを覚える季節でもあります。
ですから、自分の証しが小さいと思わなくてよいのです。
食卓で「今日は礼拝でこういう御言葉を聴いた」と一言語ること。悲しんでいる人のために、その人の名前を覚えて祈ること。誰も見ていないところで誠実を選ぶこと。
その一つ一つを、主は福音の働きとして用いてくださいます。
信仰を守り抜く希望――最後に残るのは、主の恵み
・6節から8節にかけて、パウロは自分の歩みを振り返ります。
「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」
これは、自分の功績を誇る言葉ではありません。むしろ、主に支えられてここまで来た者の、静かな証しです。パウロの人生は決して順風満帆ではありませんでした。迫害し、迫害され、誤解があり、孤独があり、痛みがありました。それでも最後に彼の口から出たのは、不平や恨みではなく、主への信頼でした。
・「戦いを戦い抜く」とは、だれかを打ち負かすことではありません。罪、誘惑、恐れ、あきらめ、不信仰との戦いです。自分自身との戦いです。
「決められた道を走りとおす」とは、ほかの人と比べて速い遅いを競うことではありません。
主がそれぞれに備えられた道を、主を見上げて進むことです。「信仰を守り抜く」とは、自分の力で信仰を握りしめ続けたというより、主が最後まで守ってくださったという恵みの告白です。
私たちはしばしば、自分の弱さを見るたびに、「こんな自分ではだめだ」と思います。
しかし、信仰の完成者は私たちではなく主です。だからこそ、弱い者も希望を持てるのです。
たとえば、長く祈っているのに状況が変わらないことがあります。何度も同じことでつまずいて、自分で自分にがっかりすることもあります。けれども、そのたびに主のもとへ帰るなら、そこに恵みがあります。
信仰とは、一度も倒れないことではなく、倒れてもなお主に向かって立ち上がることです。
そして、その力もまた、主ご自身が与えてくださいます。
8節でパウロは言います。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
ここに福音の喜びがあります。義の栄冠は、一部の特別に立派な人だけのものではありません。
「主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも」とあるのです。つまり、主を愛し、主に望みを置く者に与えられるという約束です。ここで言う「義」は、自分の立派さの成績表ではありません。
私たちが神の前に義とされるのは、イエス・キリストが十字架で私たちの罪を担い、復活して新しい命を開いてくださったからです。
私たちは、自分の行いによって神に受け入れられるのではありません。
また、自分の信仰が立派だから受け入れられるのでもありません。
私たちを神の前に立たせてくださるのは、ただキリストの十字架と復活の恵みです。
信仰とは、その恵みを自分の手柄にすることではなく、空の手で受け取らせていただくことなのです。
だから、福音は弱い人への良い知らせです。失敗の多い人への良い知らせです。
やり直したいと願う人への良い知らせです。自分を誇れない人への良い知らせです。
私にとっても良い知らせです。
だから私たちは、成功したから安心し、失敗したから見捨てられた、と考えなくてよいのです。
キリストにある者の土台は、自分の出来ではなく、主の真実だからです。
そのため、折が悪いと感じる日であっても、なお希望を持って祈り、立ち上がることができます。
・ですから私たちは、人生の終わりを恐れるだけの者ではありません。主にあって歩む道の先に、裁き主であると同時に、私たちのために十字架にかかってくださった救い主が待っておられるからです。
その方は、私たちを冷たく突き放すために来られるのではなく、ご自分の恵みの中に完成させるために来られます。
だから、今日という日も、私たちは希望をもって歩むことができます。
折が良い日も、折が悪い日も、主は変わらずに共にいてくださいます。
結び――折が良くても悪くても、聖霊に導かれて立ち続ける
・今日の御言葉から、三つのことを心に留めたいと思います。
第一に、私たちの中心はいつも御言葉であること。
第二に、都合のよい言葉ではなく、命を与える健全な教えに耳を傾けること。
第三に、最後まで私たちを守り抜いてくださる主に希望を置くことです。信仰生活は、気分の良い日だけにできるものではありません。神学生だけ、牧師だけ、役員執事だけが生きるものでもありません。
主に招かれたすべての人が、それぞれの場所で歩む道です。
今週も、私たちにはいろいろな出来事があるでしょう。
思いがけず感謝に満ちる出来事もあれば、重荷を覚える出来事もあるでしょう。
けれどもそのどちらの中でも、主は私たちに語っておられます。だからこそ、どんな一週間が始まるとしても、私たちは御言葉を携えて歩み出すことができます。
朝の静かな祈りの中で、仕事や家事の合間に、家族との会話の中に、病の床の上で、あるいは涙の中で、主は御言葉によって近づいてくださいます。
そして、「恐れなくてよい。わたしの言葉にとどまりなさい」と呼びかけてくださいます。
月曜日の忙しさの中でも、火曜日の疲れの中でも、水曜日の迷いの中でも、木曜日の重荷の中でも、金曜日のあわただしさの中でも、土曜日の不安の中でも、主は変わらず、私たちと共にいてくださいます。
そして主の日ごとに、また私たちを礼拝へと集め、御言葉で養ってくださるのです。
そして聖霊は、御言葉を聴くだけで終わるのではなく、御言葉を携えて歩む者へと私たちを造り変えてくださいます。
家庭で、職場で、学校で、病の床で、また教会の交わりの中で、主の慰めと真実を小さくても確かに証しする者とされたいと願うのです。
もし今、自分は弱く、信仰に自信がないと思っておられる方がいるなら、どうか覚えてください。
主イエス・キリストは、強い人のためだけに来られたのではありません。主は、罪人=神を知らない人を招くために、疲れた者、重荷を負う者を招くために来られました。
十字架は、立派な人へのごほうびではなく、赦しを必要とするすべての人への救いのしるしです。
ですから、「こんな自分では遅い」と思わずに、今日、主のもとへ向かいましょう。
主は、悔いて御もとに帰る者を拒まれません。
折が良くても悪くても、御言葉を聴き、御言葉に生き、御言葉を証しする歩みへと、主は私たちを招いておられます。
私たちの力は小さくても、主の言葉は力があります。私たちの心が揺れても、主の真実は揺らぎません。
私たちが途中で立ち止まりそうになっても、主は御手をもって支えてくださいます。
その恵みに信頼して、今週も一歩ずつ、主と共に歩み出していきましょう。
祈り
お祈りします。恵み深い真の命なる神様。
今日、テモテへの手紙二4章1~8節の御言葉を通して、
あなたが私たちを励ましてくださっていることを感謝します。
折が良いときにも悪いときにも、御言葉に立ち、御言葉に聞き従う者としてください。
自分に都合のよい言葉ではなく、命を与える福音を求める心を与えてください。
苦しみの中でも、あなたが共にいてくださることを忘れさせないでください。
聖霊降臨節を歩むこの時、あなたの聖霊によって教会を新しくし、
御言葉を大胆に、また柔和に証しする群れとしてください。
私たちの罪のために十字架にかかり、復活してくださった主イエス・キリストによって、
赦しと新しい命が与えられていることを、深く受け取ることが出来ますように。
そして、私たちそれぞれに託されている務めを、愛と忍耐をもって果たしていくことができますように。
この一週間も、聖霊に導かれて、折が良くても悪くても主に従う歩みを続けさせてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。
アーメン。