はじめに
・皆さん、おはようございます。本日はマルコによる福音書7章1節~13節「昔の人の言い伝え」というテーマでメッセージをお伝えします。この箇所には、イエス様とファリサイ派の人々や律法学者たちとのやり取りが記されています。彼らは、イエスの弟子たちが伝統的な「手の洗い・手の清め」を守らなかったことを批判します。イエス様は、彼らの心の問題、そして「神の戒め」よりも「人の伝統」が優先されてしまう危険性について語られます。
1.手の洗い・清め
・ファリサイ派の人々や律法学者が「手の洗い」に強く拘った理由は、彼らが日常生活の中で目に見える形の「宗教的な清さ」を非常に重視していたからです。旧約聖書の律法(特にレビ記など)には祭司や特定の状況における清めの規定がありましたが、ファリサイ派の人々や律法学者たちはこれを一般の人々の日常生活にも広げ、食事の前に手を洗うことを「神への従順」と「聖さ」の表れと考えていました。
また、彼らは「祖先の言い伝え」や口伝律法を守ることこそが、神の律法をより完全に実践する道だと信じていました。そのため、「手の洗い」は単なる衛生習慣ではなく、「信仰の証」として非常に重要な意味を持っていました。こうした背景から、イエスの弟子たちがこの伝統を守らなかったことを問題視し、イエスに問い詰めたのです。
「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」(マルコ7:3-4 )
この聖書箇所は、当時の宗教指導者たちの「手の洗い」や「清め」の習慣について具体的に説明しています。
旧約聖書において「手の洗い」や「清め」について記されている代表的な聖句として、レビ記15章11節や出エジプト記30章17節~21節が挙げられます。特に出エジプト記30章17節~21節では、祭司が聖所に入る際や祭壇に近づく際に、水で手と足を洗うことが命じられています。これは、神の前に出るための清めの儀式であり、汚れから身を守るための重要な規定でした。
◆手足を清める
「主はモーセに仰せになった。 洗い清めるために、青銅の洗盤(せんばん)とその台を作り、臨在の幕屋と祭壇の間に置き、水を入れなさい。 アロンとその子らは、その水で手足を洗い清める。 すなわち、臨在の幕屋に入る際に、水で洗い清める。死を招くことのないためである。また、主に燃やしてささげる献げ物を煙にする奉仕のために祭壇に近づくときにも、 手足を洗い清める。死を招くことのないためである。これは彼らにとっても、子孫にとっても、代々にわたって守るべき不変の定めである。」(出エジプト記30章19節、20節)
このように、旧約聖書には祭司や特定の状況における「手の洗い」の規定が記されています。
2. 伝統と信仰の本質
・当時のユダヤの宗教指導者たちは、祖先から受け継いだ多くの「言い伝え」や「しきたり」を大切に守っていました。手を洗うことや食器を洗うことなど、生活の細部に至るまで律法の外側に細かいルールが加えられていました。それ自体は悪いことではなく、神に対する敬意や清さを表す一つのかたちでした。
しかし、イエス様は、形式や伝統そのものが信仰の本質となってしまうことの危険を指摘されます。人間の行いが、神への真実な心を隠してしまうことがあるからです。
「言い伝え」や「しきたり」、そして「口伝律法」とは、ユダヤ教において祖先から代々受け継がれてきた宗教的・生活的なルールや慣習を指します。これらは、聖書(特にモーセ五書)に明確に書かれていない細かな規定や解釈を、口頭で伝承し、生活の中で守ることによって共同体の信仰と秩序を保ってきました。「口伝律法」は特に、書かれた律法(トーラー)を補う形で発展し、紀元2世紀頃には「ミシュナ」として編集・体系化され、後の「タルムード」へとつながります。
ミシュナやタルムードは、ユダヤ教における口伝律法およびその注解・議論を体系化した文書です。、これら自体はヘブライ語聖書(旧約聖書)には直接記されていません。なぜなら、ミシュナは紀元2世紀ごろに編纂され、タルムードはさらにその後、ミシュナへの議論と解釈をまとめたものだからです。聖書の中ではこれらの書物名や内容が直接言及されることはありませんが、イエスの時代には「昔の人の言い伝え」(マルコ7章3節、4節など)や「口伝律法」といった形で、口頭で伝承されてきた律法や慣習について触れられています。
したがって、聖書においてミシュナやタルムードという名称や具体的な記述は見られませんが、マルコ7章やマタイ15章などで言及される「人の言い伝え」「しきたり」「昔の人の伝統」といった表現が、後のミシュナやタルムードに発展していくユダヤ教の口伝律法の伝統を反映しています。
「言い伝え」や「しきたり」には、食事の際の手の洗いや食器の清め、安息日の過ごし方など、日常生活のあらゆる場面にわたる規則が含まれています。これらは神への敬意や共同体のアイデンティティを表す重要な役割を果たしてきましたが、イエスの時代には形式主義や本来の信仰の目的から逸脱する危険性も指摘されるようになりました。イエスは、人間の作った伝統や習慣が神の本質的な戒めに優先されてしまうことを戒め、真実な心で神と向き合うことの大切さを強調されました。
イザヤ書29章13節には、「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。』」
神がイスラエルの民に対して「口先では神を敬うが、心は神から遠く離れている」と厳しく指摘する箇所です。ここで神は、彼らの信仰が表面的な儀式や習慣にとどまり、真の心からの敬虔さが失われていることを問題視しています。「彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」とあるように、神への畏敬が単なる人間の教えや伝統にすり替わってしまっていることを警告しています。
この言葉は、新約聖書においてもイエスが引用し、形式的な伝統が神との真実な関係や本質的な信仰に優先されてしまう危険を強調しました。イザヤ書29章13節は、信仰の本質が外面的な行いだけではなく、心から神に向かうことにあると教えています。私たちも、習慣や伝統に流されることなく、常に心から神を求めることの大切さを自覚する必要があります。
3. 「人の言い伝え」が「神の言葉」に優先されるとき
・イエス様は、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」(7章9節)と厳しく語られました。例えば、両親を敬うことはモーセの律法の根本的な教えですが、当時の人々は「コルバン(神への捧げ物)」という制度を利用して、実際には両親を助ける責任から逃れたりしていました。
それは本末転倒であり、神の御心から離れた「伝統」の悪用です。イエス様は、外面的な形式に縛られ、本当に大切な神の思いを見失ってしまう危険を指摘されています。
「コルバン」とは、ヘブライ語で「捧げ物」を意味し、当時のユダヤ社会では自分の財産や持ち物を「神への捧げ物」として神殿に献納することを宣言する制度でした。この宣言をすると、その財産は神聖なものとみなされ、本人や他者が自由に使うことができなくなります。そのため、たとえ両親が困窮して助けを必要としていても、「これはコルバンだから渡せない」と主張することで、親への扶養や援助の義務から逃れることができました。
このような背景には、律法や伝統を厳格に守ろうとするあまり、本来の神の御心や倫理的責任が軽視される傾向がありました。特にイエスの時代、宗教指導者たちは伝統的な規定や口伝律法を重視し、その解釈や実践が社会全体に強い影響を与えていました。コルバンの制度は本来神への献身を示すものでしたが、実際には個人の責任回避や形式主義の温床となり、親孝行や隣人愛といった律法の根幹が損なわれる事態が生じていたのです。
また、当時のユダヤ社会では家族や親族の絆が重要視されていましたが、経済的な負担や社会的プレッシャーの中で、コルバンを口実にして親への扶助を拒むケースが現実に存在していたことが、新約聖書の記述からも読み取れます。イエスはこのような伝統の悪用を厳しく批判し、律法の本来の意味・神の戒めである「父母を敬う」ことの重要性を再度強調されたのです。
4.招詞(旧約聖書)ミカ書6章8節
・本日の招詞として、旧約聖書ミカ書6章8節を選びました。ご一緒にお読みしたいと思います。
「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:6-8) ありがとうございます。
・この御言葉は、単なる形式的な献げ物や外面的な行いではなく、神が本当に求めておられるのは「正義」「慈しみ」「へりくだり」、そして「神と共に歩む心」であることを教えています。これは、マルコによる福音書7章1節~13節でイエス様が語られた、「人の伝統」や「外側の形式」が信仰の本質を覆い隠してしまう危険性、そして神への真実な心の大切さと深く響き合います。
私たちも、伝統や習慣にとらわれることなく、神ご自身が求めておられる心で主に仕えていきたいと願います。
「正義」「慈しみ」「へりくだり」、そして「神と共に歩む心」を証しする聖書箇所はいくつかあります。いくつか主なものをご紹介します。
「正義」
-エレミヤ書22章3節:「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」
-アモス書5章24節:「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。」
これらの箇所から、神の正義とは単なる法的な正しさだけでなく、弱い立場の人々を守り、社会的な公正を実現しようとする神の御心であることがわかります。神の正義は、愛と慈しみと共に実践されるべきものであり、私たちもその御心に従って歩むことが求められています。
「慈しみ」
-詩編103編8節には「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。」と記されています。また、
-ルカによる福音書6章36節では、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」とイエスが教えています。さらに、
-マタイによる福音書9章13節でイエスは「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と述べており、神が形式的な行いよりも、真心の慈しみを求めておられることが強調されています。これらの聖書箇所は、私たちが神の慈しみを受け、それを隣人に示す生き方の大切さを教えています。
「へりくだり」
-フィリピの信徒への手紙2章3節:「何事も利己心や虚栄からするのではなく、へりくだって互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。」
・自分の利益や名誉だけを求めるのではなく、謙遜な心を持って他者を尊重し、思いやることの大切さを説いています。信仰生活において、自己中心的な態度を捨て、他者を思いやる姿勢が神に喜ばれるものであることを示しています。
-ヤコブ4章10節「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」
神の御前で謙虚な心を持つことの重要性を語っています。人は自らを誇るのではなく、神の前で自分の弱さや限界を認め、へりくだることで、神がその人を導き、必要な時に高めてくださるという約束です。このようなへりくだりの姿勢が、真の信仰者としての歩みの基盤と言えます。
「神と共に歩む心」
-創世記5章24節:「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」
・エノクが日々の生活の中で神との親しい交わりを持ち、誠実に神に従って生きたことを示しています。「神と共に歩む」という表現は、単なる道徳的な生き方を超えて、神との深い関係、信頼と従順の姿勢を表しています。そして、神がエノクを特別に取り去られたことから、神に喜ばれる歩みがどれほど尊いものであるかが強調されています。
また、
-コロサイの信徒への手紙2章6節:「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みない。」とあります。
・信仰者がイエス・キリストを受け入れた後も、日々キリストと結ばれ、キリストに倣って生き続けることの大切さが語られています。つまり、信仰は一時的な出来事ではなく、継続的にキリストと共に歩む生き方であることを強調しています。両聖句とも、神との関係が日々の歩みの中に現れるべきであるというメッセージを私たちに伝えています。
これらの聖書箇所は、神が私たちに求めておられる心のあり方と歩み方を明確に示しています。
4. 私たちに問いかけられるもの
-マルコに戻って、7章13節「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
・このイエス様の言葉は、現代を生きる私たちにも深い問いかけです。教会や信仰生活の中で守られている「習慣」や「伝統」は、私たちの信仰を支える大切なものですが、それが目的となり、神との関係が形骸化してしまうことがないように、心を常に点検する必要があります。
イエス様は「その心はわたしから遠く離れている。」(7章6節b)と言われました。私たちの礼拝、祈り、奉仕など、すべての行いの中心に「神を愛し、隣人を愛する」心があるか、今一度問い直してみましょう。
・私たちが日々の生活の中で直面するさまざまな選択や課題の中でも、神との関係を最優先に保つことは容易ではありません。しかし、エノクや初代教会の信仰者たちのように、神と共に歩むことを意識し続けることで、私たちの信仰も確かに養われていきます。たとえ小さな一歩であっても、誠実に神に従い歩む姿勢は、神が喜ばれる生き方と言えるでしょう。
日々の祈りや御言葉の黙想を通して、私たちの心がいつも主に向けられているかを点検し、形だけの信仰に陥らないよう心がけましょう。そして、神の愛に応えて自らも愛を実践し、周囲の人々にキリストの香りを放つ存在となることを願います。私たち一人ひとりが、主に結ばれて歩む新しい一歩を踏み出すことができますように。
結び
・「昔の人の言い伝え」は、私たちの信仰生活にも影響を与えています。しかし、最も大切なのは、神ご自身の御言葉に聞き従い、主に心から仕えることです。伝統や形式を超えて、いつも新しく、真実な信仰を持ち続けていきましょう。
皆さんの歩みが、神の御心にかなうものとなりますようお祈りいたします。
・私たちが日々主のみ言葉に耳を傾け、祈りの中で神と心を通わせることは、信仰を新たにし、真実な歩みに導かれます。困難や試練の中でも、主の導きを信じて一歩を踏み出す勇気を持つとき、そこに神の恵みが注がれることを覚えましょう。これからも、互いに励まし合い、愛と信仰に満ちた共同体として歩み続けていきたいと思います。
・マルコによる福音書7章1~13節は、
イエス様が「昔の人の言い伝え」と神の御言葉の違いを強調されました。
私たちも日々、伝統や習慣にとらわれすぎず、
神ご自身の御心に従うことの大切さを心に留めましょう。
主が求めておられるのは、外側の形ではなく、内側の真実な心です。
・どうか私たちが、主のみ言葉に従い、神への愛と隣人への愛を実践できるよう、
日々歩んでいくことができますように。
祈り
皆さんと、心を合わせてお祈りします。
愛する真の命の神様、今日、マルコによる福音書を通して「昔の人の言い伝え」について学びました。伝統や習慣を大切にしつつも、何よりも御言葉に従い、
あなたとの関係を大切にして歩むことができますように、私たち一人ひとりを導いてください。
どうか私たちが、日々の生活の中であなたの愛を実践し
、周囲の人々にも主の香りを放つことができますように。
困難や悩みの中にある方々を特に覚え、あなたの恵みと平安が豊かに注がれますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。