はじめに
・みなさん、おはようございます。本日の聖書箇所は、マルコによる福音書2章23節から3章6節です。説教題は、「安息(あんそく)日(にち)について」。副題を「安息(あんそく)日(にち)の真の意味」としました。イエスと弟子たちが安息(あんそく)日(にち)に麦畑を通り抜け、弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことをきっかけに、ファリサイ派の人々がイエスを問い詰める場面、そして安息(あんそく)日(にち)に手の萎えた人を癒やす出来事が描かれています。
安息(あんそく)日(にち)は、何と読み、何曜日で、何時から何時迄か?
・「安息日(あんそくにち)」が一般的かつ正しい読み方です。「あんそくび」や「あんそくじつ」とは通常読みません。「安息日(あんそくにち)」が、聖書や宗教的な文脈で広く用いられている正式な読み方で、日本語訳聖書や教会の礼拝、神学書などでも一貫して「あんそくにち」と表記され、ヘブライ語の「シャバット」や英語の「Sabbath(サバス)」に対応する言葉として定着しています。
・「安息日(あんそくにち)」は、歴史的にも聖書翻訳者や宗教指導者によって正統なものとされてきました。日本のキリスト教会では、「安息日(あんそくにち)」が神様から与えられた特別な日として理解されているため、その意味を正確に伝えるためにも、正しい読み方が守られているようです。
・「安息日(あんそくにち)」は、ユダヤ教において週の七日目、すなわち土曜日にあたります。創世記に基づき、神が天地創造の六日間の後、七日目に休まれたことから、この日を特別な休息の日として守る習慣が生まれました。そのため、安息(あんそく)日(にち)は毎週土曜日に祝われ、働きをやめて神とともに過ごす日とされています。
・ユダヤ教の伝統において「日没から日没まで」を一日と数えます。そのため、安息(あんそく)日(にち)は金曜日の日没(おおよそ午後5時〜午後6時頃、季節や場所によって前後します)から土曜日の日没までとなります。
・ちなみに、スペイン語で土曜日は「サバド(sábado)」と言います。この言葉は、ヘブライ語の「シャバット(Sabbath)」に由来しており、安息(あんそく)日(にち)を意味する言葉がそのまま曜日名となっています。キリスト教やユダヤ教の伝統において、土曜日は神が休まれた日=安息(あんそく)日(にち)であることから、その歴史的・宗教的な意味がスペイン語にも受け継がれているのです。
・つまり、「サバド」という語には、単なる曜日名としての意味だけでなく、「休む」「神とともに過ごす」という安息(あんそく)日(にち)の精神が込められています。スペイン語圏の文化や宗教的背景を考えると、この言葉が持つ深い意味合いを感じ取ることができます。
・今日の聖書箇所は、ある土曜日の朝から夕方にかけて起こった出来事と考えられます。
安息(あんそく)日(にち)をめぐる対立
・当時のユダヤ社会において、安息(あんそく)日(にち)は神様から与えられた大切な戒めでした。働くことをやめ、神とともに過ごす日として守られていました。しかし、ファリサイ派の人々は安息(あんそく)日(にち)を守ることを細かく規則で縛り、その精神よりも形式を重んじていました。麦の穂を摘むことや、病人を癒やす行為がこれらの規則に触れると考え、イエスと弟子たちの行動を非難しました。
・しかし、イエスはそのような形式的な規則の捉え方に異議を唱えました。イエスは、安息(あんそく)日(にち)が人間のために定められたものであり、人間が安息(あんそく)日(にち)のために存在するのではないことを示されました。つまり、安息(あんそく)日(にち)の本来の目的は、人々が神との関係を深め、心と体を休め、隣人への思いやりや愛を実践するための時間であるということです。
・イエスのこの教えは、当時の人々にとって衝撃的であり、律法の本質について改めて考えさせるものでした。規則を守ることが目的化すると、隣人を助けることや困っている人に手を差し伸べることが妨げられてしまう場合があります。イエスは、病人を癒すことや飢えた人を助けることが、安息(あんそく)日(にち)の精神にかなっていると強調されました。
・このようなイエスの姿勢は、私たちにも大切な問いを投げかけています。私たちは、日々の生活の中で規則やルールに縛られすぎて、本当に大切なものを見失っていないでしょうか。形式よりも心、決まりよりも思いやりを大切にすること。そのことが、神様の御心にかなう歩みであることを、改めて心に留めたいと思います。
ファリサイ派とは
・ファリサイ派とは、紀元前2世紀ごろから存在したユダヤ教の宗教的指導者たちの一派で、彼らは律法(モーセの十戒や細かな規則)を厳格に守ることを重視し、(口頭で伝えられてきたユダヤ教の伝統的な解釈や追加規則)である口伝(くでん)律法(りっぽう)も大切にしていました。ファリサイ派は民衆の間でも影響力があり、宗教的な純粋さや道徳を守ることに熱心でしたが、その一方で形式や規則を重んじすぎる傾向があり、イエスの時代にはしばしばイエスと対立しました。
・彼らは「安息(あんそく)日(にち)」や食事規定などの日常生活に関わる律法も細かく定め、それを守ることこそが神に従う道だと考えていました。しかし、イエスは律法の本質を「人を生かし、愛すること」にあると語り、過度な形式主義を批判しました。このように、ファリサイ派は当時のユダヤ社会において重要な宗教指導者でありながら、イエスの教えとの間にしばしば対立が生じていました。
イエスの問いかけ
・イエスは、ダビデが飢えていた時、神殿でしか食べてはいけない供えのパンを食べたという旧約聖書の出来事(サムエル記上21:1~7)を例に出し、「安息(あんそく)日(にち)は、人のために定められた。人が安息(あんそく)日(にち)のためにあるのではない。」と語られました(2:27)。さらに、安息(あんそく)日(にち)に手の萎えた人を癒されることで、「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と問いかけます(3:4)。
・このイエスの問いかけは、私たちが律法や規則の本来の意味をどう捉えるべきかを深く考えさせるものです。イエスは、単に決まりを守ることにとどまらず、その根底にある「いのちを大切にすること」「隣人を思いやること」が、神の御心にかなう道であることを強調されました。
・実際にイエスは、安息日に手の萎えた人を癒すという行動を通して、困っている人に手を差し伸べ、苦しみを取り除くことこそが、安息日の精神にかなっていることを示されました。形式や決まりにとらわれて人のいのちや幸せをないがしろにするのではなく、愛と憐れみをもって行動することの大切さを、私たちに教えてくださっています。
・このイエスの姿勢から、私たちも日常生活で「本当に大切なものは何か」を見極め、思いやりと愛をもって隣人に接していくことの重要性を学ぶことができます。安息(あんそく)日(にち)やその他の規則も、私たちのいのちを守り、心を豊かにするために与えられているのだということを、改めて心に刻みたいと思います。
安息日の本質とは
・イエスが示されたのは、神様の律法の本質は「人を生かすこと」「いのちを守ること」にあるということです。形式や決まりを守ることが目的化してしまうと、本当に大切な隣人への愛や思いやりが見えなくなります。イエスは、愛と憐れみを行うこと、困っている人に手を差し伸べることこそが、神様の御心であり、律法を守ることだと教えてくださいました。
・私たちは日々の忙しさの中で、つい自分や周りの人の心の声に気付かずに過ごしてしまいがちです。しかし、安息(あんそく)日(にち)の教えは、立ち止まり、静かに自分自身や隣人、そして神様と向き合う時間を持つことの大切さを思い起こさせてくれます。形式やルールを守ることだけにとらわれず、その根底にある「いのちを大切にし、愛を実践する」精神を忘れずに歩んでいきたいものです。
・それぞれの日常の中でも、ほんの少し立ち止まることで、心に平安と新たな力が与えられるでしょう。そして、神様の祝福が私たちの歩みに豊かに注がれることを信じて、愛と憐れみをもって生きていきましょう。
・私たちは日々の生活の中で、つい目の前のことに追われてしまい、大切なものを見失いがちです。しかし、安息(あんそく)日(にち)の精神に立ち返ることで、自分自身を見つめ直し、周囲の人々への愛や思いやりを新たにすることができるでしょう。神様が与えてくださったこの特別な日を通して、私たち一人ひとりが心の平安と喜びを受け取り、またその恵みを他者にも分かち合う者となりたいものです。
・これからも、形式や習慣にとらわれすぎず、神様の愛と憐れみを日々の生活の中で実践していくことを心がけましょう。そうすることで、私たちの歩みが豊かにされ、神様の祝福がさらに広がっていくことを信じます。
招詞
・招詞に創世記2章3節を選びました。皆さんとご一緒にお読みしたいと思います。
-創世記2:3「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」 ありがとうございます。
・この御言葉は、天地創造の物語の中で、神が六日間で世界を創造し、七日目にすべての働きを終えて休まれたことを示しています。この「安息」は、神ご自身が労働から離れて休息されたことを意味し、人間にとっても「休むこと」「自分を顧みること」の大切さを示唆しています。
・また、「祝福し、聖別された」という表現から、第七の日(安息(あんそく)日(にち))が他の日とは異なる特別な日であり、神との関係を深めるための日であることが分かります。これは、後のユダヤ教やキリスト教において安息(あんそく)日(にち)が特別に守られる根拠ともなっています。神がこの日を祝福し、聖なるものとして定められたことは、人間にとっても「働きと休みのバランス」「神との交わりの時間」を大切にするようにというメッセージが込められていると言えるでしょう。
創世記2章3節とマルコによる福音書2章23~3章6節との響き合い
・創世記2章3節とマルコによる福音書2章23~3章6節は、「安息(あんそく)日(にち)」というテーマを通して深く響き合っています。創世記2章3節では、神が天地創造を終え、七日目に休まれたことが語られています。神ご自身が働きを終えて安息されたことで、この日が特別に祝福され、聖別されたと記されています。これは、人間にとっても「休むこと」「自分を顧みること」、そして神との関係を深めることの大切さを示唆しています。
・一方、マルコによる福音書2章23~3章6節では、イエスが安息(あんそく)日(にち)の本質について問いかけます。ファリサイ派が安息(あんそく)日(にち)の規則を厳格に守ることに執着する中、イエスは「安息(あんそく)日(にち)は人のためにある」と語り、安息(あんそく)日(にち)の本来の目的が「人を生かし、癒すこと」にあると示されます。ここには、創世記で語られる神の「祝福し、聖別された日」としての安息(あんそく)日(にち)が、単なる形式や規則ではなく、人間のいのちと愛のためにあるというメッセージが響き合います。
・このように、創世記とマルコ福音書は共に、安息(あんそく)日(にち)が神と人との関係、そして愛と憐れみの実践のために定められた特別な日であることを教えています。形式的な規則にとらわれず、本質である「いのちを守り、愛を行う」ことが、神の御心であるという点で、両者は深く結びついています。
現代に生きる私たちへのメッセージ
・現代のイスラエルでは、安息(あんそく)日(にち)(シャバット)にはユダヤ教の戒律に従い、労働とみなされる行為を避ける必要があります。そのため、料理を作ることやエレベーターの釦を押すこと、買い物をすることなども制限されています。こうした背景から、ユダヤ人家庭では安息(あんそく)日(にち)に備え、他国からのユダヤ人でない留学生をホームステイとして受け入れ、安息(あんそく)日(にち)にはその留学生に料理やエレベーターの操作、買い物などを頼むことがあると聞いたことがあります。このような規則は、日常生活の中で不便に感じる人もいますが、伝統や宗教的価値観を守るために大切だと考える人も少なくないようです。ファリサイ派の精神が現代にも息づいていると感じる一方で、安息(あんそく)日(にち)の規則がコミュニティの一体感や信仰心の継承に寄与している面もあることがうかがえます。
・現代を生きる私たちも、時に「こうしなければならない」「守るべきルール」に捉われてしまうことがあります。しかし大切なのは、神様が私たちに安息(あんそく)日(にち)を与えてくださったのは、私たち自身が癒され、神の愛に立ち返るためであるということです。そして、隣人を思いやる心、助けを必要とする人に手を差し伸べることが、神様に喜ばれる生き方なのです。
・日々忙しい生活の中で、意識的に安息の時を持つことは、私たちの心と体を整えるだけでなく、神様との関係を新たにし、信仰を深める機会となります。安息(あんそく)日(にち)は単なる休息や礼拝のための日ではなく、神様から与えられた恵みを思い起こし、感謝の心をもって過ごす大切な時間です。
・これからも、私たち一人ひとりが安息(あんそく)日(にち)の意味を心に留め、神様の愛と導きの中で歩んでいけますように。互いに支え合い、祈り合いながら、神様の祝福と平安が私たちに豊かに注がれますように願います。
・教会に集うことは、単に礼拝の儀式を守るためだけではなく、信仰の仲間と共に神様を賛美し、互いに励まし合い、分かち合う時間を持つためでもあります。そこでは、私たち一人ひとりが神様の家族として迎えられ、喜びや悩みを共有し、祈りを通して神様の愛と導きを感じることができるのです。
・また、教会で過ごす安息の日は、日常の喧騒から離れ、自分自身を見つめ直す貴重な機会ともなります。神様の御言葉に耳を傾け、心を静めることで、新たな力や希望をいただき、また新しい一週間を歩み出す勇気を得ることができるでしょう。
・このようにして、安息(あんそく)日(にち)を大切にしながら、私たちが神様の恵みの中で日々を過ごし、隣人と共に愛と平和を築いていくことができますように。これからも変わらず、神様と人とのつながりを深めていきましょう。
安息(あんそく)日(にち)と魂の救い
・安息(あんそく)日(にち)と魂の救いは、聖書の中で深く結びついて語られています。安息(あんそく)日(にち)は、神様が人間に与えた休息と癒しのための日であり、単なる身体的な休息のみならず、魂の回復と神様との関係の再確認の機会でもあります。イエスは安息(あんそく)日(にち)の本質について、「人を癒し、愛を行うことこそ神の御心である」と教えました。これは、形式的な規則よりも、魂の救いと隣人への思いやりが重視されるべきであるというメッセージです。
安息(あんそく)日(にち)を守ることは、神様の恵みを思い起こし、感謝の心で過ごす時間を持つことで、私たちの魂が新たな力と希望を受け取る機会となります。教会に集うことや祈りを通して、神様の愛と導きを感じ、魂の救いへと導かれていくのです。安息(あんそく)日(にち)を大切にし、愛と憐れみを実践することが、魂の救いへの道であるといえるでしょう。
・安息日と魂の救いに関する聖書の御言葉として、「創世記 2章2-3節」の他に、「出エジプト記 20章8-10節」でも十戒の一つとして安息(あんそく)日(にち)が語られています。「安息(あんそく)日(にち)を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 七日目は、あなたの神、主の安息(あんそく)日(にち)であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(新共同訳聖書 出エジプト記 20:8-10)この戒めは、安息(あんそく)日(にち)を神にささげ、休息と礼拝の時とすることの重要性を教えています。
魂の救いとは
・聖書において「魂の救い」そのものを直接的に表現する代表的な御言葉として、
・ペトロの手紙一 1章9節が挙げられます。
-「それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(新共同訳聖書 ペトロの手紙一 1:9)
・この御言葉は、信仰によって魂が救われることの確かさを示しています。
・信仰の歩みの中で最終的に与えられる「魂の救い」が、すでに信じる者に約束されていることを示しています。ペトロは、困難や試練の中にあっても信仰を持ち続けることが、魂の救いへと導くと励ましています。
・ここで語られる「魂の救い」は、単なる現世の安らぎではなく、神様との永遠の関係に入ること、すなわち永遠の命の希望を指しています。信仰者は、イエス・キリストを信じることによって、神様から魂の救いという最大の恵みを受け取ることができるという確信が、この御言葉には込められています。
・また、詩編 62編2節にも
-「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」
とあり、魂の救いが神から与えられることを強調しています。(新共同訳聖書 詩編 62:2)
・神への全幅の信頼と静かな待望の心を表しています。この御言葉は、困難や不安の中でも、魂が騒がず、ただ神のみを仰ぎ見て希望を置く姿勢を示しています。人間的な力や世の助けに頼るのではなく、救いと平安は唯一神様から与えられるものであるという信仰告白です。
・「沈黙して」という表現には、焦りや不安から解放され、神の御業を静かに待つ謙虚さと従順さが込められています。神様に心を向け、全てを委ねることで、真の救いと安らぎを得られるというメッセージが、この詩編から伝わってきます。
・さらに、ルカによる福音書 19章10節では「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と語られ、魂の救いがイエス・キリストの到来によって実現することが示されています。(新共同訳聖書 ルカ 19:10)
・イエス・キリストの救いの使命を端的に表す御言葉です。「人の子」とはイエスご自身を指し、この言葉の背景には、ザアカイという徴税人の回心の物語があります。ザアカイは社会的に罪人とみなされていましたが、イエスは彼の家に自ら訪れ、彼の悔い改めを受け入れました。その出来事の締めくくりとして語られるのがこの節です。
・この御言葉は、イエスが特に「失われたもの」、すなわち社会から疎外された人、罪や弱さの中にある人々を求めて積極的に関わり、救いに導こうとされる姿勢を示しています。従来の宗教的規則や社会的枠組みにとらわれず、すべての人に神の愛と救いの道が開かれていることを強調しているのです。イエスの到来は、迷いや苦しみの中にいる人を捜し出し、再び神との関係へと回復させるためであるという、福音書全体のメッセージの核心といえるものです。
・これらの御言葉は、魂の救いが信仰と神の恵みによって与えられること、そしてイエス・キリストの働きによって成し遂げられることを明確に示しています。
・つまり、人間の努力や功績によってではなく、ただ神への信頼とイエス・キリストを通して与えられる恵みによって、魂の救いがもたらされるのです。私たちは日々の歩みの中で、信仰を持ち続け、神様の御言葉に耳を傾けることによって、この救いの恵みをさらに深く味わうことができます。
・また、困難や試練の中にあっても、神様が私たちの魂を守り、導いてくださるという約束に希望を持つことができます。イエス・キリストの働きによって開かれた救いの道は、すべての人に等しく差し出されており、どのような状況にあっても、神様の愛が私たちを包み、支えてくださるのです。
・このように、魂の救いは信仰を通して神の恵みに与る(あずかる)ことで実現し、イエス・キリストの救いの業によって私たち一人ひとりに確かに約束されています。だからこそ、私たちもその恵みに感謝し、日々の生活の中で神様への信頼を新たにしながら歩んでいきたいと思います。
結びに
・「安息(あんそく)日(にち)は人のためにある」。この御言葉は、神様の深い愛と配慮を表しています。私たちも、イエスのように愛と憐れみをもって、お互いに仕え合い、神の御心をこの地に表していく者となりましょう。
・私たちが日曜日に教会に集うことには、単なる伝統や習慣以上の意味があります。それは、週の初めに神様を礼拝し、感謝と賛美をささげることで、私たちの日常生活の歩みを神様に委ねる決意を新たにする時間でもあります。また、共に集うことで互いの信仰を励まし合い、助け合う絆を深めることができます。
・このような交わりの中で、私たちは神様の御言葉に耳を傾け、心を整え、新たな希望と力を受け取ることができるのです。週ごとに教会に集い、共に祈り、賛美し合うことで、神様の恵みと平安が私たち一人ひとりの上に豊かに注がれることを願いましょう。
・最後に、イエスが安息(あんそく)日(にち)をめぐる出来事を通して私たちに示されたのは、「神様が人を愛し、人のいのちや幸せを何よりも大切に思われる」という普遍的なメッセージです。私たちもまた、日々の中で形式や慣習にとらわれすぎず、困っている人や弱い立場の人に手を差し伸べ、愛をもって行動することを心がけていきたいと思います。
この一週間、それぞれの生活の場で「いのちを大切にし、愛をもって生きる」というイエスの教えを思い返し、小さな親切や思いやりを実践してみましょう。そして、安息(あんそく)日(にち)の恵みが皆さんの心と日々に豊かに注がれることをお祈りいたします。
ですから、私たちは安息(あんそく)日(にち)の日曜日に教会に集うのです。
祈り
・お祈りします。
愛する真の命の神様、今日もこうして私たちをあなたの御前に集めてくださり、
共に礼拝をささげる恵みに心から感謝いたします。
どうかこの安息(あんそく)日(にち)を通して、
あなたの愛と平安が私たち一人ひとりの心に豊かに注がれますように。
私たちが日々、あなたに信頼し、
互いに支え合いながら歩んでいくことができますように導いてください。
今週もあなたの御言葉に従い、感謝と賛美をもって歩むことができますよう、
私たちを強めてください。困難や悩みの中にある方々にも、
あなたの慰めと希望をお与えくださいますように。
すべてのことを御手に委ね、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。