【招詞】
「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。」
(詩編103編8節・新共同訳)
第一部 預言者ナタンの訪れ――罪を見抜く神のまなざし
今朝、私たちに与えられている御言葉は、サムエル記下12章1節から15節前半です。
ここには、王ダビデの輝かしい姿はありません。
巨人ゴリアトに立ち向かった少年ダビデでもありません。
サウルに命を狙われながらも、神を信頼して耐え抜いたダビデでもありません。
契約の箱をエルサレムに迎え、主の御前で力の限り踊ったダビデでもありません。
今日、私たちの前に立っているのは、罪を犯し、それを隠し、その罪が見えなくなってしまったダビデです。
前の11章で、ダビデはバト・シェバを自分のものとしました。
そして、その夫ウリヤを戦場の最前線に送り、敵の手によって殺させました。
自分の手で剣を振るったわけではありません。
しかし、命令したのはダビデです。
そしてウリヤが死ぬと、ダビデはバト・シェバを自分の妻として迎えました。
これで終わった。
おそらく、人間の目にはそう見えたでしょう。
王宮では何事もなかったように日々が過ぎていきます。
王は王として働いている。国も動いている。誰も何も言わない。
しかし皆さん。
人が何も言わないことと、神が何も御覧になっていないこととは、同じではありません。
サムエル記下11章の最後には、非常に重い言葉があります。
「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」
人間の世界では片づいた。
しかし、神の前では片づいていなかったのです。
ここが怖いところです。
罪というものは、最初は隠していることが分かっています。
「知られたら困る。」
「見つかったら困る。」
そう思って隠します。
ところが時間がたつと、人間は不思議なもので、自分自身に説明を始めます。
「仕方がなかった。」
「あの時はほかに方法がなかった。」
「自分だけが悪かったわけではない。」
「もう済んだことだ。」
そうしているうちに、最初は良心が痛んでいたことにも慣れてしまう。
罪を罪と思わなくなってしまう。
皆さん、罪の恐ろしさは、罪を犯すことだけではありません。
罪に慣れてしまうことです。
神から離れているのに、何とも思わなくなる。
祈れなくなっているのに、何とも思わなくなる。
御言葉を軽く扱っているのに、何とも思わなくなる。
人を傷つけているのに、「あの人にも問題がある」と自分を正当化する。
そこまで行くと、人間は自分の力ではなかなか戻れません。
だから神は、ダビデのところに一人の人を送られました。
預言者ナタンです。
「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。」
ここに、すでに神の憐れみがあります。
神はダビデを見捨てておられなかった。
だからナタンを送られたのです。
ナタンは王宮に入りました。
しかし、いきなり、
「王よ、あなたは姦淫を犯しました。」
「あなたはウリヤを殺しました。」とは言いません。
一つの話をします。
ある町に二人の男がいました。
一人は金持ち。
もう一人は貧しい人でした。
金持ちにはたくさんの羊や牛がいました。
しかし貧しい人には、一匹の小さな雌の子羊しかありませんでした。
その人はその子羊を買って育てました。
子どもたちと一緒に育ちました。
自分の食べ物を食べさせ、自分の杯から飲ませ、自分のふところで眠らせました。
聖書はこう言います。
「それは彼にとって娘のようだった。」
一匹の家畜ではなかった。
家族だったのです。
ところが、金持ちのところに旅人が来ました。
金持ちは、自分の羊や牛を惜しみました。
そして何をしたか。
貧しい人のたった一匹の子羊を取り上げ、それを客に食べさせたのです。
それを聞いたダビデは激しく怒ります。
「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」
正義感に燃えています。
ひどい男だ。
許せない。
そんな人間には裁きが必要だ。
ところが、その瞬間です。
ナタンは王を見ます。
そして言います。
「その男はあなただ。」
皆さん。
今日、この一点を心に刻みたいのです。
「その男はあなただ。」
これは、今日の説教を貫く御言葉です。
ダビデは他人の罪を見ていました。
ところが神は、「ダビデよ、他人の話をしているのではない。」「あなたのことを話しているのだ。」と言われたのです。
私たちは聖書を読む時でさえ、人のことを考えてしまうことがあります。
「これはあの人に聞かせたい。」
「あの人こそ悔い改めるべきだ。」
「あの人にこの御言葉が必要だ。」そう思うことがあります。
けれど御言葉は、そこで私たちの肩をつかむのです。
そしてこちらを向かせる。「あなたはどうなのか。」
「あなたの心はどうなのか。」
「あなたはわたしを第一としているのか。」
「あなたは赦しているのか。」
「あなたは愛しているのか。」
「あなたは隠していないか。」
「その男はあなただ。」
これは痛い言葉です。
逃げたくなる言葉です。
しかし、この言葉がなければ、ダビデは戻れなかったのです。
神はダビデを潰すためにナタンを送ったのではありません。
ダビデを取り戻すために送られました。
だから皆さん。
神の御言葉によって心を刺される時、それをただ恐れないでください。
そこには神の愛があります。
隠してきたものを示される時。
心の高ぶりを示される時。
自分の冷たさを示される時。
神から離れていた自分を示される時。
痛いでしょう。
しかし、その痛みは終わりではありません。
神がまだ私たちをあきらめておられないから、御言葉は私たちを刺すのです。
「その男はあなただ。」
その言葉を聞いたところから、ダビデの回復は始まったのです。
第二部 「わたしは主に罪を犯した」――言い訳をやめる時
ナタンはダビデに、神がこれまで何をしてくださったかを語ります。
「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出したのはわたしだ。』」
神はダビデに、「あなたは悪い人間だ」とだけ言われたのではありません。
その前に、「わたしがあなたに何をしてきたか思い出しなさい」と言われるのです。
わたしがあなたを選んだ。
わたしがあなたを守った。
わたしがあなたをサウルから救った。
わたしがあなたを王にした。
わたしがあなたに与えた。
それなのに――。
「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。」
ここに、ダビデの罪の本質があります。
バト・シェバとの罪。
ウリヤに対する罪。
殺人の罪。
もちろん、それらは重大な罪です。
しかし、そのさらに奥にあるものを神は見ておられました。
「主の言葉を侮った。」
これが罪の根なのです。
神の御言葉より、自分の欲望を大きくした。
神の御心より、自分の都合を優先した。
神が見ておられることより、人に見つからないことを重要にした。
それが「主をあなどる」ということです。
私たちは、「神をあなどる」と聞くと、神を馬鹿にするとか、神を否定するとか、非常に極端なことを想像するかもしれません。
しかし、もっと身近なところで起こります。
神を信じている。
礼拝にも来ている。
聖書も読む。
祈りもする。
それでも、「このことだけは自分の好きにしたい。」「ここだけは御言葉に従いたくない。」「この人だけは赦したくない。」「これくらいなら神様も許してくださるだろう。」
そうして神の御言葉を自分より下に置いてしまう。
それが、主を軽く扱うことです。
そしてナタンは、罪の結果について厳しく語ります。
ダビデの家から剣が離れない。
彼が隠れて行ったことが、公のところに現れる。
罪は、本人だけでは終わらないのです。
一人の罪が、家族を傷つける。
一人の嘘が、関係を壊す。
一人の欲望が、周囲の人を巻き込む。
特に、力を持っている人の罪ほど、多くの人を傷つけます。
だから神は、王だからといってダビデを特別扱いされませんでした。
神の前では、王冠も役職も肩書も、人を守ってはくれません。
牧師であっても。
教会員であっても。
長く信仰生活を送っていても。
聖書をよく知っていても。
神の前では、一人の人間です。
そして、ついにダビデは言います。
「わたしは主に罪を犯した。」
短い言葉です。
驚くほど短い。
しかし、ここが大切です。
「でも、バト・シェバにも責任がありました」と言わない。
「でも、王にはいろいろ事情があるのです」と言わない。
「でも、ウリヤは戦争で死んだのです」と言わない。
「でも、私はこれまで神様のためにたくさん働いてきました」とも言わない。
ただ、「わたしは主に罪を犯した。」
皆さん。
悔い改めとは、言い訳をやめることです。
「でも」を置かないことです。
人間は、自分を守りたいのです。
だから、「確かに悪かった。でも……」と言います。
しかし、その「でも」がある限り、本当には神の前に立っていないことがあります。
詩編51編には、このダビデの心がさらに深く表されています。
「神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。」
ダビデは、自分の実績にすがっていません。
「私はゴリアトを倒しました。」
「私はイスラエルのために戦いました。」
「私は契約の箱をエルサレムに運びました。」
そんなことを一つも持ち出さない。
ただ、「神よ、わたしを憐れんでください。」
これしかないのです。
そして、それでよいのです。
神の前に帰るために、立派な言葉はいりません。
長い説明もいりません。
「主よ、私が罪を犯しました。」
それでよい。
するとナタンは言います。
「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」
ここに福音の光があります。
罪を認めた者に、神は、「もう遅い」とは言われませんでした。
「あなたには失望した。もう終わりだ」とも言われませんでした。
「その主があなたの罪を取り除かれる。」
罪を軽く扱うのではありません。
罪を罪として裁かれる神が、その罪を取り除かれるのです。
けれど、赦されたからといって、罪の結果まで全部なくなるわけではありません。
壊した関係がすぐ元通りになるとは限らない。
失った信頼が一日で戻るとは限らない。
傷つけた人の痛みがすぐ消えるとは限らない。
だからこそ、罪は恐ろしいのです。
しかし、それでも神は言われる。
「あなたの罪を取り除く。」
これが憐れみです。
神の赦しとは、罪を「たいしたことではなかった」と言うことではありません。
「それは本当に罪だった。しかし、それでもわたしはあなたを捨てない。」
それが赦しなのです。
だから私たちは、神の前で言えるのです。
「わたしは主に罪を犯しました。」
その言葉の向こう側に、赦してくださる神がおられるからです。
第三部 罪を赦す神――それでも残る痛みの中で
ダビデは罪を告白しました。
そしてナタンは、「その主があなたの罪を取り除かれる」と宣言しました。
ここで私たちは、ほっとしたくなります。
赦された。
では、これで全部終わった。
元通りになった。
そう思いたくなる。
しかし聖書は、そんな軽い終わり方をしません。
罪は赦されます。
しかし罪によって生じた痛みは、その後も残ります。
ナタンは厳しい言葉を告げます。
そして、この後、ダビデの家には深い悲しみが続いていきます。
ここは私たちにとって、とても理解しにくいところです。
「赦されたのなら、なぜ苦しみが残るのですか。」そう尋ねたくなります。
しかし、赦しと結果は同じではありません。
たとえば、誰かを深く傷つけてしまった。
心から謝った。
相手も赦してくれた。
それでも、傷がその瞬間に消えるわけではありません。
壊れた信頼をもう一度築くには時間が必要です。
言ってしまった言葉を、言わなかったことにはできません。
過去を消すことはできません。
それでも、神はその過去の中に入ってくださいます。
ここが大切なのです。
神の赦しは、過去を消す魔法ではありません。
過去を抱えた人間を、それでも未来へ歩ませる恵みです。
ダビデは、この後、深い悲しみを経験します。
そして彼は神の前に伏します。
祈ります。
泣きます。
王冠をかぶったまま、何事もなかったように振る舞うのではありません。
神の前で砕かれていきます。
詩編51編には、その心が響いています。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。」
何と深い祈りでしょう。
「問題をなくしてください」だけではありません。
「評判を元に戻してください」でもありません。
「苦しみを取り去ってください」だけでもありません。
「私の心を造り直してください。」
そう祈っているのです。
皆さん。
これが悔い改めです。
本当の悔い改めとは、ただ、「罰を受けたくありません」と言うことではありません。
「神様、私を変えてください」と願うことです。
罪を犯した自分の心そのものを、神に造り直していただくことです。
私たちは失敗すると、失敗そのものを消したくなります。
「あの日に戻れたら。」
「あの言葉を言わなければ。」
「あの選択をしなければ。」そう思います。
しかし、過去には戻れません。
だから神は、過去に戻すのではなく、私たちを新しくされるのです。
「清い心を創造してください。」
ここで使われている「創造」という言葉は、とても重要です。
自分で少し修理するのではない。
神に新しく造っていただく。
つまり悔い改めとは、自分を自分で立て直すことではありません。
神の御手に自分を差し出すことなのです。
「主よ、私はこういう者でした。」
「私はあなたを軽く扱いました。」
「私は人を傷つけました。」
「私は自分を優先しました。」
「でも主よ、私を新しくしてください。」
この祈りを神は退けられません。
今日の招詞を思い出してください。
「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。」
神は怒られます。
罪に対して怒られます。
しかし、それは人間のように感情を爆発させる怒りではありません。
罪によって人が壊れていくことを放っておかれない、聖なる愛の怒りです。
だから神はナタンを送られました。
だから、「その男はあなただ」と言われました。
この言葉は、ダビデを地獄へ突き落とす言葉ではありません。
ダビデを神のもとへ連れ戻す言葉だったのです。
私たちにも、そういう時があります。
説教を聞いていて、胸が痛くなる。
聖書を読んでいて、「これは私のことだ」と思う。
誰かの一言が、心の奥に残る。
逃げたくなる。
聞きたくなくなる。
しかし、そこで神は私たちを捨てようとしているのではありません。
むしろ反対です。
帰って来てほしいから、語っておられる。
神が私たちに無関心なら、何も言わないでしょう。
しかし愛しておられるから、「そこにいてはいけない。」「こちらへ帰って来なさい。」と言われる。
神の裁きの言葉の奥には、帰って来いという父の声があるのです。
だから皆さん。
罪を示された時、神から逃げないでください。
むしろ神のところへ行くのです。
罪を犯したから神から離れるのではない。
罪を犯したからこそ、神のところへ帰る。
そして、「神よ、わたしを憐れんでください。」と祈る。
そこに、赦しの光が差し込むのです。
第四部 立ち返る者に注がれる憐れみ――十字架へ続く赦し
この物語を読みながら、私たちは一つの問いを持つのではないでしょうか。
なぜ神は、これほど大きな罪を犯したダビデを見捨てなかったのでしょうか。
ダビデは王でした。
神から多くのものを与えられていました。
それなのに、その力を自分の欲望のために使いました。
人の妻を奪いました。
その夫を死なせました。
そして隠しました。
私たちなら、「もう王として失格だ。」「もう神に用いられる資格はない。」そう考えるかもしれません。
しかし神は、罪を軽く扱われなかったと同時に、ダビデを捨てられませんでした。
ナタンを送りました。
罪を示しました。
悔い改めへ導きました。
赦しを宣言しました。
そして、その後の人生をも歩ませていかれました。
ここに神の憐れみがあります。
しかし、この物語を読む時、一つ注意しなければなりません。
これは、「罪を犯しても、最後には神様が何とかしてくださるから大丈夫」という話ではありません。
決してそうではありません。
ダビデの人生には、この罪の後、深い傷が残りました。
家庭にも混乱が起こります。
剣が彼の家を離れません。
罪には、本当に重い結果があります。
だから聖書は、「罪などたいしたことではない」とは決して言わない。
しかし同時に、「罪を犯した人間には、もう希望がない」とも言わないのです。
この二つを同時に語る。
それが聖書です。
罪は重い。
しかし、神の憐れみはさらに深い。
そして後に、ダビデとバト・シェバとの間にソロモンが生まれます。
人間の目から見れば、傷だらけの歴史です。
決して美しい過去ではありません。
しかし神は、その傷だらけの歴史の中でも御業を続けられます。
そして、さらに長い年月の後。
ダビデの家系から、一人のお方がお生まれになります。
イエス・キリストです。
ここで私たちは、ダビデを超えて十字架を見るのです。
なぜ神は罪人を赦すことができるのでしょうか。
罪など気にしないからではありません。
神が優しいから、見なかったことにしてくださるのでもありません。
そうではありません。
罪は裁かれなければならない。
だからこそ、キリストが十字架に立たれました。
私たちが受けるべき罪の裁きを、キリストが負ってくださった。
私たちが、「わたしは主に罪を犯した」と告白する時、その私たちに赦しが与えられるのは、罪が軽いからではありません。
十字架が重いからです。
皆さん。
ここに福音があります。
ナタンがダビデに言いました。
「その男はあなただ。」
今日、神の御言葉は、私たちにも言います。
「あの人ではない。」
「隣の人でもない。」
「あなたのことだ。」
私です。
あなたです。
私たちは皆、神より自分を優先してしまう者です。
神を愛していると言いながら、神を後回しにする。
御言葉を知りながら、都合のよいところだけを選ぶ。
人の罪には厳しく、自分の罪には理由をつける。
だから、「その男はあなただ。」という言葉から逃げることはできません。
しかし――。
そこで終わらないのです。
その同じ神が、悔い改める者に言われます。
「その主があなたの罪を取り除かれる。」
これが福音です。
「あなたがその男だ。」
そして、「あなたの罪を取り除く。」
この二つの言葉の間に、十字架があります。
だから私たちは、自分の罪を隠さなくてよいのです。
神はすでに御存じだからです。
言い訳しなくてもよい。
自分を立派に見せなくてもよい。
ただ神の前に立ち、
「主よ、私が罪を犯しました。」と言えばよい。
そして、「神よ、わたしを憐れんでください。」と祈ればよい。
神は、砕かれた心を退けられません。
失敗したから終わりなのではありません。
罪が明らかになったから終わりなのでもありません。
むしろ、そこから始まることがあります。
自分の罪を知り、神の憐れみを知り、以前より深く主を畏れ、以前より深く人を憐れみ、以前より深く十字架にすがって生きる。
それが、赦された者の新しい歩みです。
ですから今日、私たち一人ひとりが御言葉の前に立ちたいのです。
誰かの罪を考えるのではありません。
誰かにこの説教を聞かせたいと思うのでもありません。
まず、自分自身が神の前に立つ。
そして、主の声を聞くのです。
「その男はあなただ。」
痛い言葉です。
しかし、その声から逃げないでください。
その声を語っておられる方は、「もうお前はいらない」と言っておられるのではありません。
「帰って来なさい」と言っておられるのです。
だから私たちは帰ることができます。
罪を隠さず。
言い訳せず。
ただ十字架を見上げながら。
「主よ、私はあなたを軽んじました。
私は罪を犯しました。
どうか憐れんでください。
私の内に清い心を造ってください。
そして、もう一度あなたと共に歩ませてください。」
その祈りから、新しい歩みが始まります。
罪よりも、神の憐れみのほうが深いからです。
そして、主をあなどってしまった者をさえ、主は悔い改めへと呼び戻し、赦しの中でもう一度立たせてくださるのです。